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22
その数日後、『喫茶うさぎ』のドアを力無く開け、そこに呆然と立ち尽くしていたのはモラちゃんだった。
髪はボサボサで、目は虚ろ、頬は痩せこけている。スーツもシワだらけでネクタイはヨレヨレ、いつもの横柄で自信ありげな面影はどこにもなかった。
「弥生、すまなかった……」
声にも張りがなく、枯れ木のようになった彼はその場に崩れ落ちた。膝から崩れて、床に両手をついて、頭を垂れる。肩が震えて、息が荒い。涙は見えなかったけど、声は掠れて、ほとんど息みたいだった。
「俺、会社……辞めさせられたんだ、解雇だって……笑うよな」
「……そう、解雇」
私はカウンターから出て、ゆっくり近づいた。エプロンの裾を握って、彼の腕をそっと掴む。お客様が怪訝な顔をしてこちらを見てる。かずちゃんは黙って階段を上がって行き、2階の居住スペースへ消えた。店内の空気が、重くなる。
「外で話そう」
私は彼の腕を引いて、ドアの外へ連れ出した。商店街の路地は、昼下がりの陽光が差し込んで、でも影が長く伸びてる。彼はよろよろとついてきて、路地の壁に背中を預けて、崩れ落ちるように座り込んだ。
「弥生……俺、全部失った。仕事も、信用も、お前も……俺が、全部壊したんだな」
声が途切れ途切れで、目を伏せたまま。私は彼の前にしゃがんで、視線を合わせる。頰の青あざはもう完全に消えて、代わりに、ここで過ごした日々の穏やかさが、肌に染みついてる。
「幹雄くん」
名前を呼ぶと、彼の肩がびくりと震えた。
「幹雄くん……幹雄くんは私に『俺がいないと、おまえは何も出来ないんだ』って言ったけど、本当は私がいないと幹雄くんが何も出来ないんじゃない?」
モラちゃんは目を見開いて、項垂れた。
「……弥生、悪かった。もう怒鳴らない……叩かない」
言葉が、途切れ途切れにこぼれる。私は黙って、聞く。もう、怒りはない。ただ、静かな哀れみと、遠い過去の記憶だけ。
「帰ってきてくれ……俺はおまえがいないと……ダメなんだ」
彼は頭を下げて、地面に額を押しつける。土下座みたいに。私は立ち上がって、彼を見下ろす。陽光が、彼の背中を照らして、影を長く伸ばしてる。
「幹雄くん、謝ってくれて、ありがとう」
声は穏やか。でも、はっきり。
「でも、私はもう、あなたと一緒にいることはできない。あの頃の私は、あなたに縛られて、息ができなかった」
モラちゃんは顔を上げると、私のエプロンに縋り付いて泣いた。指先は白くなるまで力強く、二度と離さないとでも言うように、しがみついた。哀れに思えた。
「私はもう、幹雄くんと違う人生を歩いているの」
いつの間にか、隣には宇佐美さんが立っていた。その手は優しく私の肩をそっと抱いた。モラちゃんはその姿に愕然とし、息を呑んだ。
「や……弥生、お前」
「やっぱり、お前って呼ぶんだね」
私はエプロンを掴んだ指を一本ずつ外した。モラちゃんの手は空を切る。力なく落ちて、地面に触れる。彼の指先が震えて、陽光に照らされて、白く光る。涙がぽたりと落ちて、アスファルトに小さな染みを作る。
「弥生……」
声が、ほとんど息みたいに掠れてる。宇佐美さんは私の肩を抱いたまま、静かに彼を見下ろす。表情は穏やかで、怒りも同情も、ほとんど見せない。ただ、淡々と。
「大杉さん」
宇佐美さんが、低い声で名前を呼ぶ。モラちゃんはびくりと肩を震わせて、顔を上げる。目が、宇佐美さんに向く。認識した瞬間、顔がさらに青ざめた。
「君の行動は、もう『個人的な問題』じゃ済まない。会社にも、周りにも、全部知られてしまった。それでも、ここに来たのは、まだ諦めきれなかったからか」
モラちゃんは唇を噛んで、視線を落とす。
「俺は……ただ、謝りたかっただけだ……弥生に、もう一度、チャンスを……」
「チャンスは、君が自分で壊した」
宇佐美さんの声は、静かだけど刃みたいに鋭い。
「弥生さんは、もう君のものじゃない。自分の人生を、自分の手で歩き始めた。それを、邪魔しに来るのは、もうやめてほしい」
モラちゃんは、地面に額を押しつけたまま、動かない。肩が、小さく震え続ける。私は彼の頭を見下ろして、最後に、一言だけ。
「幹雄くん、生きて。ちゃんと、自分の人生を」
それだけ言って、私は宇佐美さんの肩に寄りかかるようにして、店内に戻った。ドアを閉めると、チリンとベルが鳴る。外の光が、一瞬だけ差し込んですぐに閉まる。店内は、また静か。かずちゃんが階段を降りてきて、
「終わったか?」
って、短く聞く。私は頷いて、
「うん。もう、来ないと思う」
カウンターに戻って、豆を挽き始める。コロコロ、コロコロ。お湯を注いで、ドリップする。カップに注いで、常連さんに、
「いらっしゃいませ。今日のコーヒーです」
おじいさんが一口飲んで、
「いい味だねぇ。弥生ちゃんの味」
私は微笑んで、
「ありがとうございます」
外では、モラちゃんが、ゆっくり立ち上がった。背中を丸めて、路地を去っていく。足音が、だんだん遠ざかって、商店街の角に消える。もう、振り返らない。私はカウンターを拭きながら、心の中で呟く。ありがとう、幹雄くん。これで、本当に、全部終わった。
これからは、私の朝だけ。木目の香りと、深煎りの苦みと、優しい甘みだけ。自由の味は、もう、私のものだ。
陽光が窓から差し込んで、カウンターを優しく照らす。新しい一日が、静かに始まる。私はカップを手に取って、ゆっくり息を吐く。ここが、私の居場所。高千穂弥生の、本当の朝。
終わり。そして、始まり。
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