テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
文化祭が終わって、もうすぐ一ヶ月が経とうとしている。教室の窓の外では、秋風に舞う落ち葉がちらちらと過ぎていく。
ホワイトボードに貼られている文化祭の写真を片付けるように、担任が日直の俺が指名したので、楽しそうな顔をしたクラスメイトの写真を眺めつつ、一枚一枚丁寧に剥がしていたそのとき、背後から低く響く声が耳に届く。
「奏、久しぶりだな」
「――健ちゃん?」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには中学の頃と同じ笑顔で立つ神崎健司がいた。髪のセットは変わっていないし、彼の持っている雰囲気も多少成長しているけれど、あの頃のままの“健ちゃん”だった。
「健ちゃん、なんでここに……?」
愕然として声が震える。有朋学園に入学してから、成績の悪い俺に関わろうとしなかった健ちゃん。そんな彼がわざわざ俺のクラスに現れ、声をかけてくるなんて。
健ちゃんは口元に笑みを浮かべた。けれどその笑みは、懐かしいはずなのにどこか棘を含んでいて、胸の奥に冷たいざわめきを落とした。
「俺も生徒会役員だって知ってた? 氷室とは合同委員会に……それはそうと文化祭、成功していたな」
彼の物言いと注がれる視線に、違和感を覚える。まるで「俺のことを羨ましいと思ってないか?」と試すような物言いだった。
胸の奥で冷たいなにかが、ゆっくりと回転するような感覚が走る。
小学生のあの頃、どこかで感じていた健ちゃんの“優しさの裏の優越感”——それが今、言葉になって目の前に現れた気がした。その現実に触れた瞬間、逃げ出したくなるような不安が胸に押し寄せてくる。
「……健ちゃん、どうして、あのとき俺を中学受験に誘ったの?」
声が僅かに震える。問いかけの奥には、信じていたものを裏切られた痛みが滲んでいた。
健ちゃんは眉を少し上げて、睨むような視線を俺に返す。
「ははっ、理由? 別に深い意味なんてないさ。ただ、見てみたかったんだよ。ドジでバカな奏が、優秀な俺より上に行く姿を……本当に、そんなことがあるのかってな。実際中学受験に合格しても、ここでの奏の成績は、俺よりもうんと下だったけど」
その瞬間、過去に積み上げた“信頼”という名の積み木が、音を立てて崩れ落ちるのがわかった。優しさの裏に隠された競争心と独占欲。当時、小学生だった俺にはわからなかった“歪んだ想い”が今、胸に深く突き刺さる。
そのとき、教室の扉が音もなく開いた。差し込む夕陽を背負い、氷室が姿を現す。俺の背にすっと立ち、迷いなく健ちゃんを見据えた。
「神崎、葉月になにを言ってるんだ?」
冷静だけど鋭い声だった。慌てた健ちゃんは少し黙り込む。氷室は一歩前に出て、俺の肩にそっと手を置いた。
「奏の努力や涙を、“ただの実験”みたいに見ていたのか?」
氷室の声は穏やかだったが、その言葉の刃は鋭く、健ちゃんの胸に突き刺さったはずだ。その証拠に、健ちゃんはまぶたを伏せて、僅かに唇を歪めた。まるで、言い訳を飲み込むかのように一度唇を引き結び、それから顔を上げる。
「……氷室。俺は別に、奏を見下してたわけじゃない」
「そうか? さっきのセリフ、そんな感じに受け取るには無理があるだろ」
氷室は一歩も引かない。静かな口調のまま、しかし言葉に宿る熱がじんわりと伝わってくる。
「ただ……俺は昔から知ってるからさ。奏がドジしては笑ってごまかして、自分の兄貴やクラスメイトに甘えてばっかだったのも。でもさ、最近の奏は、なんか変わってて……」
「変わってるって、なにが?」
自分でも思わず割り込んでいた。健ちゃんは伏せていたまぶたをあげ、俺を捉える。
「氷室といるようになってからだよ。前みたいに、俺を頼らなくなった。俺が手を差し伸べなくても、自分で考えて動けるようになった……そういうの正直、怖かった。俺が必要じゃなくなったみたいでさ」
その言葉に、胸がちくりと痛む。確かに小学生の頃は、なにかと幼なじみの健ちゃんを頼りにしていた。中学に入ってからは、クラスも成績もバラバラだった俺たち。だからなにかあっても健ちゃんに頼ることなく、自分でなんとかしてきたつもりだったのに。
「健ちゃんは、俺が変わることを……望んでなかったの?」
自分で問いかけながら、喉の奥が苦しくなる。健ちゃんは嫌そうな顔をして俯いた。まるでその顔を隠すように。
「……望んでなかったわけじゃない。でも、置いていかれた気がしてさ。俺だけ、昔のまま取り残されたような気がしたんだよ」
そんな弱さを、健ちゃんが言葉にするのは珍しかった。だけど、それでも俺は今の自分を、否定することはできない。
「俺は、変わりたかった。ほかの人に頼ってばかりじゃなくて、ドジな自分でもちゃんと歩けるようになりたかったんだ」
氷室の手が、そっと俺の背を支えてくれる。その手のひらから伝わってくるぬくもりに、胸がじんわりあたたかくなった。
「奏は、もう俺の知ってる奏じゃないのか……」
健ちゃんの呟きが教室に溶けた瞬間、チャイムが鳴った。
「……また話そう、健ちゃん」
俺の言葉に、彼は答えなかった。ただ静かに一礼し、夕陽に染まる廊下の奥へと歩き去っていく。その背中は、どこか取り残された影のように見えた。
でも、俺は立ち止まらない。氷室と出会って、変わることのできた自分がいる。もう“誰かの影”じゃなく、自分の足で歩いていく。窓の外で舞い落ちる一枚の葉のように、俺もまた新しい季節へと進んでいくんだ――そんな確信が、静かに胸の奥で灯った。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!