私たちが付き合い始めたことは、デザイン室の皆んなにあっという間に知られることになった。
はじめに気づいたのは、さおりだった。神社での撮影をドタキャンしたお詫びとして、私と北川を晩御飯に誘ってくれた時に、並んで座る私たちの様子を見ていてピンときたらしい。
自分たちは何も変わっていないつもりだったけれど、さおりが言うには「雰囲気が違う」のだそうだ。
「私、北川さんのファンにいじめられたりしませんよね」
そんな不安を口にする私に、さおりはぷっと吹き出した。
「そんなわけないでしょ。みんな、可愛いカップルが誕生したって思ってるよ。だから今度は生暖かい目で見られるようになるんじゃない」
「えぇっ。恥ずかしいなぁ」
「あはは。でもいいなぁ、学生カップルかぁ。初々しいよね。私にもそんな時代があったわ」
さおりは、昔の何かを懐かしむように遠い目をした。
食事が終わり、デザートもお腹に納め終えたところで、さおりが私たちを促した。
「そろそろ帰ろうか。ーーそう言えば今日、旦那が出張から帰って来るんだった」
ふと思い出したかのような口ぶりのさおりに、私たちは目を瞬かせた。
拓真は私と顔を見合わせてから、申し訳なさそうにさおりに言った。
「そんな日に俺たちと夕飯なんか食べてて、大丈夫だったんですか?」
「食べて来るって言ってたからね、いいのよ。碧ちゃんは、北川君が送って行くんだよね」
「はい、もちろん」
「よし、じゃ、出ようか」
さおりが伝票を持って立ち上がる。
私と北川は揃って頭を下げて礼を言った。
「ご馳走さまでした」
「どういたしまして」
店の前でさおりと別れた後、私は北川に促されて彼の車の助手席に乗り込んだ。今日もこのままアパートに向かうのだろうと思っていたら、北川がためらいがちに私を見た。
「ちょっとだけ寄り道してもいい?行きたい場所があるんだ」
もう少し一緒にいられると思ったら嬉しくなった。どのみち急いで帰らなければならない理由も用事もないし、彼が行きたいと言う場所がどんな所なのか興味があった。
「北川さんが行きたい場所、私も行ってみたい」
「よし、じゃあ、行くよ」
そう言って北川は車を発進させた。
郊外に向かって二十分ほど車を走らせただろうか。彼が車を止めたのは、田園地帯の中を走る道路沿いだった。この一帯には田んぼや畑、果樹のハウスがあったりして、民家ともやや離れている。少し先には暗い空を背にして山の稜線が見えた。
少ない街灯の灯りを確かめながら、私は彼に訊ねた。
「ここ?」
「うん。ここら辺は建物がなくて空が広く見えるから、星が綺麗に見えるんだよ。天体観測が趣味ってわけじゃないけど、今夜は空が晴れているからきっと綺麗だろうなって思ったら、碧ちゃんと一緒に見たくなったんだ。ただの俺の自己満足だけどね」
北川は照れたように笑う。
「外に出てみてもいい?」
「もちろん」
北川はエンジンを切り、助手席側に回ってドアを開けた。
「足元に気をつけてね」
「うん。ありがとう」
私が外に出たのを確かめて、北川はドアを閉める。それから私のすぐ隣に立ち、夜空を仰ぎ見た。
「やっぱり今夜は天の川が綺麗に見えてる」
北川が指さす方向に目を向けて、そこに星の帯を見つけた私は感嘆の声をもらす。
「うわぁ、ほんと、綺麗だね。天然のプラネタリウムだね。連れて来てくれてありがとう」
「喜んでもらえたみたいで良かった」
北川の嬉しそうな声がとても近い所で聞こえたと思った瞬間、柔らかな感触と熱を唇に感じた。
今のは、キス……?
そうと気づいて全身がカッと熱くなる。暗いからよく分からないだろうが、顔なんて絶対に真っ赤になっているはずだ。熱くなった頬をひんやりとした自分の両手で覆った。
「碧ちゃんがすぐそばにいるって思ったら、我慢できなかった。……ごめん。だけど、もう少しだけ触れさせて」
北川の腕が伸びて来て、私は彼の胸元に抱き寄せられた。これまで手を繋ぐことはあっても、こんな風に彼と密着したことは初めてだった。しかも初めてのキスをした余韻もあって、私の鼓動は苦しいくらいにどきどき鳴っている。耳元で北川が囁いた。
「好きだよ」
そのひと言を聞いたら、幸福感でいっぱいになった。北川への想いがこみあげてきて、私は彼の胸に顔を埋めるようにしながら言った。
「私も好き。大好き」
言い終えた途端、私を抱く彼の腕に力が入った。
「あぁ、もうっ!帰りたくないんだけど。でも明日は朝一でゼミが……」
葛藤するような彼の様子に、私は思わず笑い声をもらした。
「何笑ってるのさ。こんな風に悩むのは、碧ちゃんのせいなんだからね」
恨みがましく彼は言ったけれど、よく聞けば笑いをこらえている。
「もう帰ろう。これ以上一緒にいたら俺、やばいよ」
何が――?
そう言ってからかおうと思ったけれど、やめた。今乗ろうとしている車は、ある意味密室だということに気がついて、緊張してしまう。
おずおずと車に乗り込んだ私が急に黙ってしまったのを、北川は不思議に思ったようだ。けれどその理由に思い当たったのか、彼は悪戯っぽい目をして私の顔をのぞき込んだ。
「今夜はもう帰るだけだから安心していいよ」
頭の中を見透かされた気がして、恥ずかしくなった。
北川はくすっと笑いシートベルトをかけようとしたが、不意にその手を止めた。
「俺とキスするの、嫌じゃなかった?」
どうしてわざわざそんなことを聞くのかと怪訝に思ったが、私は真面目に答える。
「嫌じゃなかったよ」
「それならさ。帰る前に、もうちょっとだけ進んだキス、したい」
北川が私の方へ身を乗り出した。
「進んだキスって?」
どぎまぎしながら訊ねると、北川は手を伸ばして私の頬を撫でた。
「もうちょっと長いキス、かな」
彼の顔が近づいてきて、私は目を閉じた。間近に彼の体温を感じたと思ったら、唇を挟み込まれるような感触が訪れて、私は息を止めた。
たいして長い時間ではなかったと思うけれど、彼の唇が離れたと思った時、私は胸を抑えながら深々と呼吸した。
「碧ちゃん、大丈夫?」
気遣う北川の声に私は慌てて答えた。
「うん、大丈夫。息をしていいのかが分からなくて……」
北川の目が見開かれた。
「……もしかして、キスするのとか、初めて?」
「うん、はじめて……。だって、北川さんが初めての彼氏だから」
こんな話、恥ずかしい……。
「そう言えば、祭りの時、そんなことを言ってたね。がちがちに口閉じてるから、あれって思ってしまった。先走っちゃったね。ごめん」
私は恥ずかしさの残る顔のまま、おずおずと北川に目を向けた。
「私こそごめんなさい。うまくできなくて……」
謝る私に彼は満足そうに言う。
「むしろ俺としては嬉しいかな。碧ちゃんのファーストキスの相手は、俺ってことになるわけだろ?」
北川は私の頬にちゅっとキスをして、はにかんでいる私に笑いかけた。
「今度こそ本当に帰ろう」
そんな夜の出来事以降、私たちの交際は互いの部屋を行き来するまでに進展していった。私も彼を下の名前で呼ぶようになっていた。北川――拓真の言う「進んだキス」も少しは上手にできるようになった。しかし、私たちの関係はまだキス止まりだった。
その先の知識はそれなりにあったけれど、自分のこととして現実感を持って考えることができなかった。いつかは――とは思っていたけれど、そのいつかが私に訪れるのは、まだまだ先のことだと思っていた。拓真の優しさがあまりにも心地よくて、私は彼の傍にいることだけで満足していたし、それは彼も同じだと思っていた。けれど実はそこには、拓真の忍耐があったということに、私は気づいていなかった。
アルバイトが一緒になった日は、どちらかの家で一緒に夕食を取ることが当たり前になっていた。
その日もデザイン室の皆んなから、微笑ましげな目を向けられつつ、私たちは雑務をこなして一緒に帰宅した。今夜は拓真の部屋で一緒に映画を見ようということになっていた。彼の持つテレビは画面が大きくて、映画などを見るのにちょうどいいのだ。
「碧ちゃん、何食べたい?」
部屋に入るなり拓真に訊ねられて、私は慌てた。彼と付き合い出してから知ったのだが、拓真は料理が好きだった。悔しいけれど、私よりも拓真の方が上手で、私の出番はいつもほとんどなかったが、こう言ってみる。
「今夜は私が作るよ」
「いいからいいから。座ってて」
案の定拓真はそう言って、私の背中を押しながらラグのある方へ促した。
「で、何がいい?」
にこにこと重ねて訊ねられ、私は諦めて答えた。
「それじゃあ、オムライスが食べたいな」
「オッケー。待っててね」
拓真はキッチンに入り、手際よく料理を始めた。
「急いで作ったから味は保証できないけど」
「そんなことない。絶対に美味しいはず。いつもありがとう」
私は彼の隣に座って、用意してくれた夕ご飯を味わった。いつもながら美味しい。食後は、自分がやるからという拓真を制して後片付けをする。
その後私たちは床に並んで座って映画を見た。見終わって、ふと彼の部屋の時計が目に入る。だいぶ遅い時間だったが、泊まって行くという発想はまったくない。
「私、帰るね」
バスの運行時間はもう終わっている。いつもは送ってもらっているが、今日はさすがに悪いと思う。学生には痛いけど、タクシーを拾おう――。
「待って、送って行くよ」
「もう真夜中だから申し訳ないよ。タクシー拾うから」
「ダメだってば。危ないだろ」
「もうっ、拓真君は心配性なんだから」
私は笑って立ち上がった。
「待ってってば!」
引き留める拓真を安心させようと顔を向けた途端、彼に腕を引かれてしまい、そのままクッションの上にぽすんとお尻が落ちた。
「捕まえた」
くすっと笑い、拓真は私の体に腕を回す。
「もう少しだけ一緒にいて。ちゃんと送るから」
拓真は目元を優しく緩め、私にそっと口づけた。
それは彼の言う「進んだキス」だった。今では息をするタイミングが分かるようになっていて、私は目を閉じて彼の唇を受け止めた。
いつもより長い――。
そう思った時、拓真の舌が唇に触れた。その湿った感触に驚いて唇が緩む。そこに彼の舌が入り込んできて、ますます驚いた私は体を震わせた。
「ん、んんっ……」
彼の舌が自分の舌に絡みつき、体の芯が未知の感覚に熱くなる。
しばらくそんなキスを続けていた拓真の唇が離れた。
私はくたっと彼の体に全身を預けた。
彼は安心させるように私の背を撫でながら、恐々といった様子で言った。
「大丈夫?嫌だった?」
私は細い息をつきながら、首を振った。
「嫌じゃないけど、なんだか変な気分になっちゃう」
私の答えを聞いて、彼は安心したように笑い、私を抱き締めた。
「大人のキス、しちゃったからね。もう少しだけ、碧ちゃんを味わわせて」
「味わうって何……?」
私の質問に拓真はにこっと笑い、彼は再び「大人のキス」をした。
「ん……」
彼の口づけに、私は次第にもどかしいような気分になっていった。
これは何……?
拓真に訊ねたくても、彼のキスは終わらない。優しい口づけを続けながら、彼は私の背を撫でる。その手のせいか、キスのせいかは分からないけれど、私の体中から力が抜けていく。
「碧ちゃん、好きだよ……」
拓真はようやく唇を離し、息を弾ませている私を見つめた。私をクッションの上にゆっくりと倒し、ブラウスのボタンを外して下着に指をかけた。露わになった胸元に顔を寄せて、彼はその突端を口の中に含む。
「あっ……っ」
ぬるりとした生温かい感触に声がもれた。拓真の舌が動く度に溢れる声が恥ずかしくて、それを防ぎたくて、私は両手で自分の口を塞いだ。お腹の辺りと脚の間がもどかしく疼き出す。
これって……。
まだ先のことだと思っていたことが、今自分に起きているのだと悟った。同時に私は初めての感覚に混乱する。
拓真の手が私の内腿を這い、下着の中を探るように指が滑る。
「っ……」
私は口を覆いながら彼を見上げた。
このまま今夜、私は彼と――。
覚悟のような思いが浮かび、何気なく顔を横に向けた時だった。そこに置かれた鏡が目に入り、どきりとした。
そこには自分の姿が映っていた。乱れた服、露わになった肌と自分も知らなかった上気した顔。自分の淫らな様子に一気に頭が冷えた。
今の私、こんな顔を好きな人の前で見せてるの?恥ずかしすぎる――。
そう思った次の瞬間、拓真の指が私の敏感な部分に触れた。あっと思うと同時に怖いと思った。気づいた時には、彼の体の下から精一杯の力を使って逃げ出していた。
「ごめんなさい、帰る」
それだけ言って、私は彼から逃げるように急いで身支度を整えた。拓真が呆気にとられた顔をしていたのは分かっていたが、自分の恥ずかしい姿に強烈な衝撃を受けていて、彼のことまで気にかける余裕がなかった。
「碧ちゃん、俺……」
拓真が何かを言おうとした。
その時の私はいっぱいいっぱいで、彼の言葉に耳を傾ける余裕がなかった。今の自分の顔を見られたくないと思った。だから私はうつむいたまま背を向けた。
「自分で帰れるから」
それだけ言って、私はバタバタと彼の部屋を後にした。
拓真も私の行動に戸惑っていたのだろう。彼から電話がかかってきたのは、それからしばらくたってからだった。
逃げるように帰ってきたことを、後悔してはいた。しかし、彼のことは大好きだが、今はまだ会いたくないと思ってしまっていたせいで、その電話に出なかった。淫らな姿を好きな人に見せてしまったという羞恥心、それに加えて拓真の男の顔を初めて見たという衝撃が、思った以上に私の頭と心にこびりついていた。
本当は素直に話せば良かったのだ。それなのに、私は自分の中だけで解決しようとし、気持ちが落ち着くまではアルバイトも休もうと決めた。
電話に出ない上に、私がアルバイト先にも姿を見せなくなったことで、拓真が直接部屋まで来たこともあった。けれど私は居留守を使い、彼に会うのを避け続けた。拓真に会いたいという気持ちと、私を執拗に捉えている様々な感情とは、なかなか折り合いがつかなかった。
そうしているうちに、彼からの連絡はなくなってしまった。
それは当然の結果だ。自業自得だと自分を責めた。大切な存在を失ってしまったことに喪失感を覚えた。この時、自分から行動を起こしていればまだ間に合ったかもしれない。けれど勇気を出すのが遅かった。連絡しようと行動を起こした時には、彼の電話はつながらなかった。行ってみた彼の部屋は空き部屋だった。季節は春。彼は大学を卒業してどこか違う土地に行ってしまったのだと、やっと気がついた。
どうしてあれくらいのことで、彼から逃げてしまったのか――。
今さらだと分かっていても、悔やまずにはいられなかった。おかげでこの恋は、それからもずっと私の心の底でくすぶり続けることになったのだった。
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