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私たちの交際は順調で、いつしか互いの部屋を行き来するまでになっていた。彼を「拓真君」と下の名前で呼ぶようになり、彼の言う「進んだキス」も少しは上手にできるようになったが、私たちの関係はまだキス止まりだった。
その先の知識はそれなりにあったが、自分のこととして現実的に考えることができなかった。いつかは彼と、とは思っていたが、そのいつかが私に訪れるのはまだまだ先のことだと思っていた。拓真の優しさがあまりにも心地よくて、彼の傍にいることだけで満足していた。そしてそれは彼も同じだと思っていた。しかし実はそこに拓真の忍耐があったということに、私は気づいていなかった。
アルバイトのシフトが同じ日は、どちらかの家に行き一緒に夕食を取ることが当たり前になっていた。
その日も私たちは一緒に帰宅した。今夜は拓真の部屋で、食後に映画を見ようという話になっていた。彼の部屋のテレビは画面が大きく、映画などを見るのにちょうどいいのだ。
「碧ちゃん、何が食べたい?」
「今夜は私が作るよ」
「今度碧ちゃんの部屋に行った時にお願いするよ」
拓真はにこにこしながら重ねて訊ねる。
「それで、何がいい?」
「それじゃあ……オムライス」
「オッケー。お茶でも飲んで待ってて」
途中で買って来たペットボトルのお茶と、食器棚から出したグラスをテーブルの上に置き、拓真はキッチンに入る。料理が好きだという彼の手際は、悔しいけれど私よりもいい。
手持無沙汰に、私は近くにあった情報誌を眺めていた。
しばらくして、拓真がほかほかと湯気の上がる皿を持ってくる。
「急いで作ったから味は保証できないけど」
「そんなことない。絶対に美味しいはず。いつもありがとう」
彼を手伝って、他にも用意してくれていたサラダなどをテーブルの上に並べる。
「いただきます」
隣り合って座り、夕ご飯を食べる。いつもながら美味しいと満足した後は、自分がやるという拓真を止めて、私が後片付けを担当した。
その後は予定していた通り映画を見た。見終わって、ふと目に入った彼の部屋の時計はもうだいぶ遅い時刻を指していた。
「私、帰るね」
バスの運行時間はもう終わっている。学生の懐には痛いが、タクシーを拾って帰ろうと考える。
「送って行くよ」
「もう遅い時間だから、それは申し訳ないわ。タクシーを拾うから大丈夫よ」
「一人で帰るなんて危ないよ」
「拓真君は心配性ね」
彼の言葉を聞き流し、私は笑って立ち上がる。
「待ってよ!」
彼は私の腕をつかみ、引き留める。
勢い余って、クッションの上にお尻が落ちた。
拓真は私の体に腕を回し、嬉しそうに笑う。
「捕まえた。なんなら、このまま泊まって行ってくれていいんだけどな」
「そ、それは、またそのうちっていうことで」
「そう言うと思ってはいたんだけどね……。だったらせめてもう少し一緒にいてよ。帰りはちゃんと送るからさ」
「う、うん……」
甘い誘惑に負けて頷く私に、拓真は優しく口づける。
そしてその先は、彼の言う「進んだキス」だった。目を閉じて、私は彼の唇を受け止めた。
今日のキスはいつもより長い――。
ふと思いながら息継ぎのために緩んだ唇から、拓真の舌が入り込んできた。驚いているうちにも彼の舌は私の舌に絡みついてくる。
「ん、んんっ……」
体の奥に未知の感覚を感じた時、拓真の唇が離れた。
私はくたりと彼に体を預ける。
彼は安心させるように私の背を撫でる。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫じゃないわ。なんだか変な気分になっちゃうんだもの」
彼の顔に苦笑が浮かんだ。
「大人のキス、しちゃったからね。ね、もう少しだけ、碧ちゃんを味わわせて」
私が答えるのを待たずに彼は再び私に「大人のキス」をする。
「ん……っ」
彼の口づけに、次第にもどかしさが募り始めた。
優しい口づけを続けながら、彼は私の背を、首筋を撫でる。
「碧ちゃん、好きだ……」
拓真は唇を離し、息を弾ませている私をじっと見つめる。そのままゆっくりと私をクッションの上に倒していった。
拓真から目を離せない。
その間にも、彼は私のブラウスのボタンを外していく。彼はくいっと下着に指をかけて、私の胸を露わにした。そこに顔を寄せて、その突端を口の中に含む。
温かく湿った感触がした。
拓真の舌が動く度に声が溢れる。そのことが恥ずかしくて、また、それを防ぎたくて、私は両手で自分の口を塞いだ。
体の奥がますます疼き、そして悟った。まだ先だと思っていたことが、今自分に起きている。それと同時に初めての感覚に混乱する。
拓真の手が私の内腿を這う。下着の中に指が潜った。
「あっ……」
体がびくりと反応した。私は口を覆いながら彼を見上げる。
このまま今夜、私は彼と――。
覚悟のような思いが浮かんだ。拓真の唇と手の動きに反応してしまうのを抑えられず、何気なく顔を横に向けた時だった。どきりとした。
そこに置かれた鏡に淫らな自分の姿が映っていたのだ。それが目に入った瞬間、一気に頭が冷えた。乱れた服、露わになった肌と自分でも初めて見る上気した顔。こんな顔を好きな人の前で晒しているのかと思い、羞恥にいたたまれなくなった。
拓真の指が私の敏感な部分に触れた。
腰が跳ねた。それと同時に怖いと思った。気づいた時には、彼の体の下から精一杯の力を使って逃げ出していた。
「ごめんなさい、帰る」
「碧ちゃん、俺……」
狼狽えた拓真の声が聞こえた。しかしそれを無視して、私は急いで身支度を整える。見てしまった自分の恥ずかしい姿があまりにも衝撃的で、彼の気持ちを気にかける余裕はなかった。私は一度も彼の顔を見ないまま、ばたばたと部屋を後にした。
彼からは何度も電話がかかってきた。
逃げるように帰ってきたことを後悔しながらも、電話に出なかった。好きな人に淫らな姿を見せてしまったという羞恥心と、初めて見た拓真の「男の顔」は、私の頭と心にこびりついていて、わだかまりなく話せる自信がまだなかった。
本当は、自分が感じたこと、思ったことを、正直に話せば良かったのだと思う。しかし私は自分の中だけで気持ちの整理をつけようとした。気持ちが落ち着くまでは彼に会わない方がいいと勝手に決めた。アルバイトも休むことにした。
電話には出ない、アルバイト先にも来ない、そんな私を訪ねて、拓真が直接部屋までやって来たこともあった。だが私は居留守を使い、彼に会うのを避け続けた。彼に会いたいという気持ちと、私を執拗に悩ませている様々な感情とはなかなか折り合いがつかず、そうこうしているうちに彼からの連絡は途絶えてしまう。
それは当然の結果であり、自業自得なのだと自分を責めた。大切な存在を失ってしまったことに喪失感を覚えた。
もっと早く行動を起こしていれば、まだ間に合ったかもしれない。しかし、勇気を出すのが遅すぎた。連絡しようと思い電話をかけた時にはもう、つながらなかった。直接出向いた彼の部屋は空き部屋となっていた。
折しも季節は春。大学を卒業した彼が別の土地に行ってしまったのだということに、遅ればせながら気がついた。どうしてあんなことくらいで、彼から逃げるような真似をしてしまったのかと、心の底から後悔した。
そんな愚かな自分のせいで、その恋はそれからもずっと、私の心の底でくすぶり続けることになったのだ。