テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
部屋は静かだった。
カーテンの隙間から入る夕方の光が、床に細長く落ちている。 その中で、仁人は一人、ソファに座っていた。
呼吸が、浅い。
「……っ、は……」
額に手を当てると、じわりと熱がこもっているのが分かる。 けれど、いつも通りだと思った。
ヒートは何度も経験してきた。 フェロモンも弱いし、抑制剤も効きやすい体質。 だから大抵は「少しだるい」で済む。
今日もそうなるはずだった。
テーブルの上に置かれた薬に手を伸ばす。 指先が、ほんの少し震えている。
「……飲めば、」
それで終わる。 そう思っていた。
だけど——
ぐらり、と視界が揺れた。
「……え、」
一瞬、床と天井の感覚が曖昧になる。 思わずソファの背に手をつく。
心臓が、速い。
いつもと違う。 明らかに、違う。
「……は、っ……」
呼吸が上手く整わない。 胸の奥が焼けるみたいに熱い。
喉が乾く。 でも、水を取りに立つ気力がない。
(……なんで、今日に限って……)
そう思った時だった。
玄関のドアが開く音。
「ただいまー」
聞き慣れた声。
佐野勇斗だった。
足音が近づいてきて、リビングの扉が開く。
「仁人?……どうした?」
その瞬間、仁人は顔を上げた。
いつも通り、心配そうな顔。 いつも通りの距離。
そして、いつも通りの言葉。
「……大丈夫?」
——本来なら。
「大丈夫。薬飲むから」
そう返して、終わるはずだった。
けど。
喉が、言葉を拒んだ。
代わりに零れたのは——
「……無理、っ」
自分でも驚くくらい弱い声だった。
勇斗の表情が、一瞬で変わる。
「え……」
仁人は立ち上がろうとした。 でも、足に力が入らない。
ぐらり、と身体が傾く。
「仁人!」
とっさに支えられる。
その温度に、思わず息が漏れた。
「……あ、つ……」
触れられたところが、じんわりと熱を持つ。 頭がぼんやりして、思考がまとまらない。
(近い……)
分かってるのに、離れられない。
むしろ——
離れたくない。
「……ちょっと、だけ……」
気づけば、そう呟いていた。
勇斗の服を、ぎゅっと掴む。
「仁人……?」
戸惑う声。
でも、仁人はもう止められなかった。
そのまま、身体を預けるように抱きつく。
鼓動がうるさい。 自分のか、相手のか、分からない。
「……っ、」
息が乱れて、視界が滲む。
初めてだった。
こんなに苦しいヒートも。 こんな風に、誰かを求めるのも。
ゆっくりと顔を上げる。
すぐ近くに、勇斗の顔。
「……っ」
無意識に、背伸びする。
ほんの少しだけ距離を詰めて——
唇が、触れた。
軽く。 でも確かに。
「……っ、仁人……」
驚いた声。
けど、仁人は離れなかった。
むしろ、さらにぎゅっと抱きつく。
「……やだ、離れたくない……」
掠れた声。
涙が、じわっと滲む。
「……こんなの、初めてで……」
呼吸が乱れる。
「……怖い……」
その言葉に、勇斗の腕が強くなる。
今まで見たことのない仁人だった。
強気で、頼らなくて、全部自分で抱え込む人。
そんな彼が、こんな顔で縋ってくるなんて。
「……大丈夫」
静かに言う。
「今日は、頼っていいから」
優しく頭を撫でる。
「無理しなくていい」
その声に、仁人の肩が震えた。
「……っ、」
堪えていたものが、崩れる。
ぎゅっとしがみつく。
「……勇斗……」
名前を呼ぶ声が、震えている。
「ここにいるよ」
すぐに返ってくる。
それだけで、少しだけ呼吸が落ち着いた。
でも、身体の熱は消えない。
むしろ、近くにいるせいで余計に意識してしまう。
「……熱い……」
「うん」
「……おかしく、なる……」
正直な言葉だった。
勇斗は一瞬だけ黙ってから、静かに言う。
「大丈夫。俺がいる」
逃げない声音。
そのまま、そっと額を合わせる。
「無理しないで。全部俺に任せて」
その言葉に、仁人は目を閉じた。
今まで、絶対に言えなかったこと。
頼るのが怖かった。
でも——
今日は、違う。
「……離れないで……」
小さく呟く。
勇斗は、迷わず答えた。
「離れない」
その一言で、胸の奥がほどけた。
仁人は力を抜いて、完全に身を預ける。
熱も、不安も、全部その腕の中に溶けていくみたいだった。