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加藤くんと健ちゃんの影が完全に消え、街灯の下には俺と氷室だけが残った。張りつめた空気が完全にほどけ、胸の奥からじわじわと熱が広がっていく。気づけば、俺は息を切らしたまま笑っていた。
「ねえ蓮、俺……ちゃんと戦えたかな」
「戦ったさ。奏の言葉がなければ、俺は勝てなかった。また助けられたよ」
「また?」
小首を傾げながら問いかけた俺に、氷室は見惚れる笑顔を浮かべる。忘れもしないその笑顔は、傘を差し出してくれたときと同じほほ笑みだった。
「奏と初めて出会ったときに、俺は助けられたんだ」
「それって、いつの話――?」
「高等部の編入試験のとき。あちこちの中学から有朋学園に入学するために、たくさんの生徒が試験を受けに来ていただろう?」
俺は無言で頷いた。試験を受ける生徒とまったく関わり合いのない在校生が、当日のお手伝いで集められ、俺もその一員だった。
「数人しか合格できない狭き門に、俺はかなり緊張していた。親や学校側からのプレッシャーがあったし」
「蓮はずっと、ひとりで戦っていたんだね」
そう声をかけた俺に、氷室はやるせなさそうな笑みで返し、言葉を続ける。
「午前中の学科が終わって、午後から校長室で面談があったんだけど、校舎が広くて迷っていた。困り果てる俺の目の前で、先を歩いていた奏がなにもないところですっ転んだんだ」
「あ、思い出した。あのときの受験生って、蓮だったの!?」
「ああ、そうだよ」
懐かしさを感じさせる口調で答えられても、俺は恥ずかしくて堪らなくなり、頬が赤くなったのがわかった。
「俺ってば受験生の前で派手に転ぶとか、ホントありえなかったよね」
「『大丈夫か』って手を差し出した俺に、奏が『すってんころりんしてごめんなさい』って謝ったのが驚いた。なにを言ってるんだろうって」
「滑って転ぶなんて、縁起でもない言葉を受験生の前で言えるわけなくて、そんなセリフが口を突いて出ただけなんだよ」
制服のジャケットの裾を両手でにぎにぎして、恥ずかしさをやり過ごす。
「だけどそのやり取りのおかげで、俺は緊張から解放されたんだ」
「へっ?」
氷室の意外なセリフに、俯かせていた顔を上げた。
「奏は自分のミスをなんとかするために、俺にたくさん話しかけてくれた。迷ってた俺を校長室に導きながら、屈託ない笑顔で笑いかけてくれて」
「屈託ない笑顔じゃなくて、苦笑いだったと思うけどな」
当時を思い出して告げる俺に、氷室は首を横に振った。
「俺の目には眩しい笑顔に映った。だから尚更、合格したくなった。俺を助けた奏にお礼を言うために。面談では緊急することなく、いつもより自分をアピールできたんだ」
「校長先生にアピールもさすがだけど、入学してからの蓮はすごいよ。普通は編入生が会長になることなんて、今までなかったんだから」
「奏とはクラスがずっと別々だったし、行事でもなかなか接触することが叶わなかったから。自己アピールするには、会長は手っ取り早いと思わないか?」
サラリと告げられたセリフに驚き、唖然としてしまった。
「蓮が会長になったのは、俺と接触するためだったの!?」
素っ頓狂な俺の声が、辺りに響き渡る。
「ああ。イヤでも認識しただろう?」
「認識もなにも、会長になる前から知っていたよ。噂程度にだけど」
「どんな噂?」
いつもより低い声で話しかけた氷室が、俺の手を取る。彼の親指が手の甲をやんわりと撫で擦った。
「えっと……毎回テストではトップで、いつも無表情で隙がなくて話しかけにくい、みたいな」
「へぇ、なるほど」
「カッコイイから毎日誰かに告白されているとか、よその学校に彼女がいるに違いないというのもあったっけ」
ぽつぽつ説明する俺に、氷室は小さなため息をはいた。
「俺はどうやって奏と接点を持てばいいか、毎日頭を悩ませていた。突然話しかけたら、逃げるんじゃないかと思ったりして」
「そうなんだ」
「試験のときのお礼を言うのも、時間が経ち過ぎていたし。だけどタイミングよく、雨に降られた奏が目に留まったんだよ」
雨に濡れた俺に、見惚れる笑顔で傘を差し出した蓮。
「蓮としては、してやったりだったんでしょ。傘を持たずに歩き出した俺の姿は」
「心の中で、ガッツポーズを作った。しかもその後は偶然という名の運命の導きで、奏とたくさん接触することができた」
張り詰めていた糸が切れたように、俺と氷室はしばらく言葉もなく見つめ合った。その視線の奥に、ずっと欲しかったものを見つけてしまった気がして、胸が熱くなる。
「奏……ずっと好きだった」
名前を呼ぶ声が、甘く震えていた。次の瞬間、俺は強く抱き寄せられて、息が詰まるほどに彼の胸に閉じ込められる。
顔を上げたら熱い唇が触れた。優しいはずなのに、すぐに飢えたように深く求めてくる。俺の頬にキスしたときに、奇声をあげていた人物とは思えない。
重ねられる口づけは何度も、何度も。触れるたびに体が蕩けて、もうどこにも逃げられない。
「……っ、ん……」
甘い吐息が漏れる。氷室の舌が入り込み、絡め取られて、頭が真っ白になっていく。離れていた時間を埋めるように、貪るみたいに奪われる。唇が離れるたび唾液の糸が細く光り、すぐまた口づけに沈められる。苦しいのに、もっと欲しくなる。
彼の匂いも、体温も、すべてが懐かしくて愛しくて――涙が滲むほどに嬉しかった。
「奏……君と離れていた間は長かった。どれだけ会いたかったか……」
耳元に囁かれる低い声に、背筋が震える。そのまま首筋に触れる熱い吐息。頬や額、唇へと雨のようにキスが降り注ぐ。
「蓮……俺も……ずっと、会いたかった……寂しかったっ」
やっと唇が離れたとき、氷室は俺の頬を大きな手のひらで包み込み、涙を拭うように撫でてくれた。
「泣かなくていい。奏は俺の宝物だ。これからは離さない。毎日、甘やかしてやる」
「……っ、蓮……」
低く甘い囁きに、胸の奥が溶け落ちそうになる。彼の腕に抱かれただけで、なにも怖くなかった。離れていた時間を取り戻すように、何度も何度も重なり合う。
この夜、俺は確かに感じていた。氷室蓮のすべてが俺に注がれていることを。そして俺自身も、全身全霊で彼に応えていることを。
蕩けるような口づけの中で――俺たちはやっと、互いを取り戻した。