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第4話:断絶の予兆
「……ねえ、凪。気づいている?」
放課後の商店街。
夕闇が街を飲み込もうとする中、隣を歩くメアリが足を止めた。
彼女の視線の先には、いつも通りの駅前広場が広がっている。
けれど、凪の目にも見えていた。街灯の影、路地裏の隙間――あちこちで「黒い靄(もや)」が、昨夜よりもずっと濃く、粘り気を帯びて蠢いている。
「ああ。……なんだか、空気が重い気がする」
「誰かが、無理やり影を『呼んで』いるわ。それも、ひどく歪んだ方法で」
メアリの瞳に宿る、かつてない警戒心。
その予感は、すぐに最悪の形で現実となる。
凪がふと横を向いたとき、さっきまで隣で「カラオケの十八番」について熱弁していたはずの優弥の姿が、雑踏の中から消えていた。
◇
繁華街の喧騒。
色とりどりのネオンが流れる中で、そこだけがモノクロームの静寂に沈んでいるようだった。
古ぼけたビルの壁に背を預けた中年の男――九条は、指先に挟んだ煙草から紫煙を燻らせている。
「…………」
虚空を彷徨う彼の瞳には、楽しげに笑い合う若者も、急ぎ足のサラリーマンも映っていない。
ただ、世界から切り離されたような哀愁だけが、その背中に張り付いていた。
だが、前を通りかかった優弥の姿を捉えた瞬間、その虚ろな目に、獲物を定めた獣のような鋭い光が宿る。
「……よう。ちょっといいか、少年」
掠れた、けれど耳の奥にこびりつくような低い声。
優弥は足を止め、眉をひそめた。
「え……俺っすか? いや、急いでるんで」
いかにも怪しげな、社会の底溜まりから這い出してきたような男。
本能的な警戒心が優弥に「関わるな」と告げていた。
だが、踵を返そうとした優弥の視線が、男の指先に釘付けになる。
男が弄んでいたのは、古びた真鍮の懐中時計だった。
「これか? ……いい造りだろう。もう、正確な時は刻んじゃいないがね」
九条は自嘲気味に笑い、時計を優弥の目の前に差し出す。
鈍い金色に輝くその時計は、優弥の父親が書斎の奥で「宝物だ」と言って大切にしているものと、恐ろしいほど酷く似ていた。
「これ……親父の……。なんで、あんたがそれを……?」
「さあな。縁(えにし)というやつは、往々にして残酷な形で繋がるものだ」
九条の言葉と共に、周囲の喧騒が遠のいていく。優弥は気づかない。
自分を見つめる男の背後の壁に、**「黒い靄」**よりも濃い、ドロリとした何かが蠢き始めていることに。
九条はさらに一歩、優弥の心の内側へ踏み込むように声を落とした。
「お前は父親を信じているようだが……その男が夜中にどこで何をしているか、本当に知っているか? この時計が俺の手元にある。それが何よりの『答え』だ。お前の親父さんは、家族を愛する男の皮を被った……ただの、嘘つきだよ」
「……嘘だ。親父が、そんな……!」
「嘘かどうかは、お前が一番よく知っているはずだ。最近、帰りが遅くなっていないか? 視線が合わないことは? ……心当たりがあるからこそ、お前は今、そんなに怯えているんだろう?」
九条の言葉が、優弥の脳内で「日常の些細な違和感」と結びつき、爆発的に膨れ上がる。
「いい。……実にいい『音』がしたぞ、今」
九条が満足げに目を細めた瞬間、優弥の視界から男の姿が掻き消えた。
後には、手のひらに残された重たい真鍮の感触と、心に深く刻まれた「疑念」という影だけが残されていた。
◇
「優弥! 探したぞ、急にいなくなるから……」
駆けつけた凪の声に、優弥はハッとして時計をポケットに隠した。
「……あ、ああ。悪い、ちょっと考え事してた」
「考え事って、お前らしくないな。……大丈夫か?」
心配そうに覗き込む凪に対し、優弥は人形のような無機質な笑顔を浮かべた。
「平気だって。……ほら、帰ろうぜ」
その背中を見つめるメアリの目は鋭い。
優弥の背後に漂う空気が、もはや「人間」の放つそれではなく、腐敗した何かに変質しているのを、彼女の感覚は捉えていた。
◇
その夜。優弥は自室の暗闇の中で、一人、時計を見つめていた。
階下からは、仕事から帰宅した父親と、それを迎える母親の笑い声が聞こえてくる。
昨日までは、世界で一番安心できる音だったはずなのに。
「(……あの笑い声も、全部、演技なのか?)」
九条の言葉が呪文のように脳内でリフレインする。
信じていた世界が、音を立てて崩れていく。
その瞬間、ポケットの中の時計が、ドクン、と脈打った。
時計の蓋の隙間から、タールのような漆黒の液体が溢れ出す。
それは生き物のように優弥の手首を這い上がり、血管を黒く染めていく。
「……なんだ。最初から、全部『偽物』だったんだな」
優弥の瞳から、光が消えた。
代わりに宿ったのは、あの九条と同じ、虚ろで底知れない暗闇。
優弥の背後で、黒い靄が爆発的に膨れ上がり、巨大な「影」が鎌首をもたげる。
それは、かつてメアリが狩った無機質な怪物とは違う。
憎悪と哀しみ、そして明確な殺意を孕んだ、知性ある「絶望」の形だった。
優弥の意識が、深い影の底へと沈んでいく。
かつての親友を飲み込んだ闇は、静かに、けれど確実に、凪の待つ明日へと手を伸ばし始めていた。