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チャイムの音が、遠くから届いているようだった。実際には、耳のすぐそばで鳴っていたのかもしれない。

けれど、何一つ現実感はなかった。


誰かの笑い声。

窓を閉める音。

机をひっくり返す小さな衝撃。


──すべてが、他人事のように過ぎていく。



(“見ないで”って、言ったのに)


それでも、見ていた。

あいつは。日下部は。


見て、声をかけて、俺に手を伸ばそうとした。


(やめてくれよ……そんなふうにするなよ)


まるで、俺が「まだ人間」みたいに扱われるのが、怖かった。

優しさは、毒だった。


俺のことなんて、見なくてよかったのに。

どうせ俺は──


「壊れてるんだよ」


誰にも聞こえない声で、呟いた。



机の下には、紙切れが落ちていた。

誰かが書いた落書き。


“お前に守らせる価値あると思ってんの?”


──多分、蓮司じゃない。

蓮司はもっと綺麗にやる。

でも、誰かはわからなくても、それが「教室の総意」なのは、よく知っていた。


誰も止めない。

誰も、助けない。


ああ、そうか──

そうだよ、これが正しいんだ。

日下部の声が、間違ってるんだ。

あいつは、俺のことを知らないんだ。

あいつが信じようとしてるのは、

“誰かになれるはずだった俺”であって、

いまここにいる、惨めで、汚くて、

“触られて笑われるためだけのもの”としての俺じゃない。



(どうして、何も知らずに、まっすぐ来れるんだ)


(どうして、そこに“罪”がないと思えるんだ)


(どうして、そんなふうに──まっとうなんだよ)



痛い。


心の奥が、焼けるように痛む。

優しさに触れるたびに、喉の奥に熱い血がこみ上げる。


(逃げなきゃ……)


そう思った。


逃げないと、

このまま信じてしまいそうで──


その先で、また裏切られて、

自分で自分を殺したくなるほど、

ぜんぶを壊したくなってしまうから。



──放課後。


誰もいなくなった教室で、俺は日下部の席に座っていた。

無意識に、ただそこに引き寄せられるように。


机の中には、何もない。

あいつの筆箱の匂いすら、もう消えていた。


「バカだな……」


独り言のように笑った。


何やってんだよ、俺。


おまえのこと、守りたいって思ったくせに、

こうしてひとりで逃げて、

誰にも言えずに、

日下部がいない間に、また地獄に戻って──


結局、何もできなかった。


いや。

違う。

「守りたかった」なんて、綺麗な言葉じゃない。


ほんとは、あいつの“目”が怖かったんだ。

優しくて、信じてくれて、まっすぐで──

その光に照らされたとき、

「おまえは汚れてない」って言われてる気がして、

それが何より、

いちばん、苦しかった。


(だって、俺は──)


──知ってるんだ。

どうやって泣けば許されるか。

どうすれば「守られる側」に見えるか。

それを、昔から知っていた。


だから、

日下部に向けたあの顔だって──

どこまでが“本物”かなんて、もうわからない。


(俺は、あいつを利用してるだけじゃないか)


(蓮司が言ったとおり、“一番いやなやつ”になってるんじゃないか)



喉の奥で、また鉄の味がした。

口を開けたら、たぶん血が流れたと思う。

でも、舌でそれを確かめる気にもなれなかった。


──そのときだった。


背後のドアが、静かにきしんだ。


誰かが立っている。



静かすぎる教室の中に、靴音が響く。

蓮司のような軽さじゃない。

日下部の、

あの、重くて、真っ直ぐな歩き方だった。


「遥」


呼ばれた。



その一言で、何もかもが崩れそうだった。


俺は、振り向かなかった。

そのまま、机に突っ伏して、顔を隠した。


声が出せない。

出したら、泣く。


「……帰るぞ」


それだけ言って、椅子を引く音がした。


──日下部は、俺の隣に座った。


触れてこない。

何も強要してこない。


ただ、

俺が顔を上げるのを、待っていた。


そして、俺は、

ほんの少しだけ、まぶたを上げた。


その瞳の奥で、

また、あの“まっすぐな目”が──


俺のなかの、

“信じたくない”何かを、

どうしようもなく、揺らしていた。



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