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あれこれ考えていても仕方ない。時間だけが過ぎていったので今日のスケジュールをこなすことにした。
契約書を持って予め伝えていた芦屋にある大栄の社長の自宅へ向かった。六麓荘に豪邸が建っている。名だたる会社の社長や著名人ばかりが住んでいるこの地区は、いつ足を運んでも異世界だと思う。そんなところに彼は住んでいた。かねてから大栄を辞めたい旨は伝え、担当に引き継ぎも全て完璧に終わっているので、実質この書類を渡すことが最後の仕事となった。
正直引き留められると思っていた。しかし「今までご苦労だった」と一言で終わり。すんなり解放された。恐らくあの事件から六年も経ち、毎月欠かさず見舞いにやってきて、俺や剣が祥子のために罪を償ってきたことへの結果だろう。
続いて祥子の見舞いへ向かった。彼女への訪問も今日で最後にすることを伝えた。彼女は柔らかく微笑み、今までありがとう、と言って俺を解放してくれた。
彼女の見舞いの後はいつも通り剣のもとへ行く。現在彼は自宅で療養している。
もともと彼の実家は大阪にあったが、静かな暮らしができる六甲山の麓に居を構え直した。RBで稼いだ金で新しい家を建て、家族で移り住んだのだ。
剣は何年もそこで暮らしているうちに、随分普通の生活ができるようになっていた。家族の支えが大きかったと思う。
新しい家は二階建てでゆったりとした空間、眺望の良いテラスでアコースティックギターを弾き、線の細い美しい声で、山に住む鳥たちに歌を聴かせている。
彼はもともと優しい性格の男だから、しがらみの多い世で心身をすり減らすよりも、ゆったりと生活する方が似合っている。外界と隔離されたような世界で暮らしているうちに、心が回復したのかもしれない。
今日の剣は、ずいぶん顔色が良かった。
「博人、どうしたの。浮かない顔をしているよ」
「そうか?」
関西在住の割に一切の関西弁を喋らない上品な男。そんな人間、剣しか俺は知らない。
「あの…博人。今まで…俺のせいで迷惑かけてごめんね」
「剣が謝ることじゃない。祥子のこと問い詰められた時、違うってちゃんと言えばよかったのにできなかった俺が悪い」
「違うよ。博人はいつもそうして自分を悪にしてしまうんだ。君は悪くない。それなのに苦しめてしまって…俺のせいで…ごめん……」
剣が頭を下げてくれた。「博人に、ずっと謝りたかった。……やっと…言えた」
震える声で伝えてくれた彼の謝罪は、俺の縛っていた罪を少し溶かしてくれた。赦されたと思っていいのだ――
この事件で一番苦しんだのは剣だろう。身体も心も壊してしまい、生きていくのも辛かったことだと思う。でも六年という歳月をかけて少しずつ傷を癒して再生した。俺の心も癒されて再生し、律のお陰で今、満たされている。
だから彼女を手放せなくて、非道な方法でこの手に収めようとしているのだ。
「大栄の仕事、もう終わりだよね? 博人はこれからどうするの?」
「まだ決めてない。せっかく自由になるんや。ゆっくり考える」
今日で大栄の仕事は終わりという事実を剣は前から知っている。俺は今日、どういう行動をすれば他の人間から怪しまれないか、普段通りに振舞う事を心掛けていた。意識しすぎるとよくないから、自然になるように。
普段通りの新藤博人を演じることなんか、俺にとっては造作もないこと――