いつも強気で余裕のある雄大さんの手が、少し震えていた。
目の前には、婚姻届。
『夫になる人』の欄にはもちろん雄大さんの名前。『証人』の欄にはお姉さんの澪さんと真由の名前が記入されていた。
澪さん、達筆だなぁー。
こんな状況で、そんなことを思った。
「俺は、馨と結婚したい」
私の足元に跪き、雄大さんが言った。
嬉しくて、涙が溢れる。
けれど、そうとは言えない。
「……無理だよ」
私たちが結婚したら、雄大さんのご両親にまで迷惑がかかる。
「無理じゃない」
「無理だよ!」
「馨」
雄大さんが指で私の涙を拭う。
「俺が結婚したいと思うのは、お前だけだよ——」
優しい微笑みの奥に、不安が揺れているのがわかった。
微笑みが消え、哀願するように私の手を強く握る。
どうして私なんかの為に——。
苦しかった。
雄大さんに愛される喜びが、与えられる悦びが、寄り添える幸せが、私を捉えて離さない。
桜を守りたい。
私の望みはそれだけだったはずなのに、雄大さんに愛されて、守られて、揺らぐ。
縋るような目で見つめられ、私は拒むことが出来なかった。
「馨、頼む」
どうして今、婚姻届にそんなにこだわるの——?
感情だけではないと、思った。
「本当に……すぐには出さない?」
「出さないよ」
「勝手に、出さない?」
「ああ」
私は大きく深呼吸をして、用紙にペンを走らせた。
雄大さんはそれをじっと見つめていた。
婚姻届を出す日は来るのだろうか……?
全ての欄が埋まると、雄大さんが私を抱き締め、キスをした。
「ありがとう」
どうしてお礼なんか——。
雄大さんは私の為に結婚を申し出てくれただけなのに。
私たちは『共犯者』なのに————。
「婚姻届どうするの?」
「どうしたい?」
「どう……って——」
雄大さんは用紙を元通りに畳むと、区役所の封筒に入れた。
「鍵のついた箱、あるか?」
鍵のついた箱……。
「あ!」
私は自分の部屋からジュエリーボックスも取って来た。私が持っているたった一つの母の形見。
雄大さんはその中に封筒を入れ、鍵を掛けた。
「これはお前が持ってて」と言って、鍵を差し出す。
私は受け取った。
雄大さんが箱を持って寝室に行き、クローゼットの一番上の引き出しにジュエリーボックスを入れた。ここだけ鍵がついていて、雄大さんは腕時計やカフスボタン、ネクタイピンなどを入れている。
「で、ここの鍵は俺が持ってる」
雄大さんが引き出しに鍵を掛けた。
「これで、婚姻届は俺たち二人の同意がなきゃ取り出せない」と言いながら、鍵をクローゼットの上に置いた。
私には届かない。
一先ず、安心した。
雄大さんに手を引かれ、私はベッドに腰かけた。彼は隣には座らず、さっきと同じように、私の足元に跪いた。
「俺の父親は槇田弘嗣《まきたひろし》。衆議院議員をやってる」
や……っぱり——。
「母親は槇田幸恵。同じく衆議院議員をしている」
槇田弘嗣議員といえば、元大学教授で現在は文部科学省の政務官、次の内閣改造での大臣候補と言われている。
槇田幸恵議員は元教育委員会職員で、よく教育関係の番組にコメンテーターとして出演している。
「すごい……ご両親だね……」
他に言葉が見つからなかった。
『すごい』なんて漠然とした表現をして、恥ずかしくなる。
「そうだな。けど、すごいのは親で、俺じゃない」
「けど……、いずれ雄大さんが地盤を継いだり……するんでしょう?」
「継がないよ。親が望んでも、俺に継ぐ気はないし、継ぎたくない」
本当なのだろう。
春日野さんも同じようなことを言っていた。
「親の仕事は立派だと思うし、二人を尊敬もしてる。だけど、俺には無理だ。だから、今の会社に入ったし、立波リゾートを継いでもいいと思った」
「だけど、ご両親は反対するでしょう?」
「かもしれない。それでも、俺はお前と結婚するし、議員にはならない」
『あの写真が社外に出たら、次期大臣の息子としてどうなるかな?』
黛があの写真を公表したら——。
雄大さん個人の問題ではなくなる。
雄大さんのご両親は親交のある大病院の娘《春日野さん》を息子の嫁にと望むだろう。実際、それを恐れて、雄大さんは春日野さんと付き合っていることを隠していた。
「雄大さん、私——」
「黛に言われたんだろう? 俺の両親のこと」
素直に頷いていいものか、迷った。
「俺も言われたよ」
「え?」
「昨日、黛と話した」
「なに……を……」
『立波リゾート次期社長が突き落とされたんだとしたら?』
雄大さんがあれを聞いたとしたら——。
「『俺との結婚で立波リゾートに注目が集まることは、馨が最も望まないことだ』って言われたよ」
他には……?
「それでも、俺は馨と結婚したい」
「雄大さん……」
ほんの少しの沈黙。
微かに雨音が聞こえた。
「ごめんな? 馨」
泣きそうに、見えた。
「相手が俺じゃなきゃ、もっと簡単な話だったんだよな」
「え……?」
「わかってるけど、俺はお前を手放せない」
雄大さんの大きくて温かい掌が頬を包む。
「何があっても守るから」
ゆっくりと顔が近づき、唇と唇が触れる。
「これは俺の我儘だから」
触れた唇が熱い。
「だからもう、結婚しないなんて言うな——」
本当に結婚出来るかはわからない。
けれど、今は——。
私は小さく頷いた。
雄大さんは嬉しそうに微笑んで、キスをくれた。優しくて温かくて、目眩がするほど甘いキス。
誓いのキスみたい————。
雄大さんは話してくれた。
私との結婚を本気で望んでくれていることもわかった。
私も、向き合わなきゃ——。
「他に……黛から何を言われたの……?」
雄大さんの瞳に写る私が見えるほどの距離で、聞いた。
雄大さんに私との結婚をやめさせようとするなら、言わないはずがない。
「馨……」
目を閉じると今も思い出す。
三年前のあの光景。
階段のしたに横たわるお義父さん。
手すり越しに無表情でお義父さんを見る妹《さくら》。
昊輝がお義父さんの首筋に触れ、唇を噛んだ。
芽生えた、疑い。
「馨?」
こんなに近くにいるのに、私を呼ぶ声が遠い。
『お願い、昊輝。助けて————』
私が、昊輝との未来を壊した。
『桜を助けて——!』
私が、昊輝を共犯者にしてしまった。
「馨!」
うまく息が出来ない。
『あの時』の昊輝の苦しそうな表情が、雄大さんと重なる。
「おい、馨!」
私はまた、大切な男性を犠牲にするの——?
あれから、昊輝と一緒にいると、どうしても思い出してしまった。きっと、昊輝も同じだった。
それでも、昊輝は私と結婚しようとしてくれた。
警察を辞めてもいいと、言ってくれた。
なのに、私は——。
『お願い、昊輝。私と別れて——』
私は、逃げた。
寂しそうに微笑んだ昊輝の顔が、雄大さんと重なる。
「ゆう……だ——」
突然、肺に目一杯酸素が送り込まれ、目が覚めた。
ゆっくりと全身に血が巡る。
抱き寄せられて、雄大さんの鼓動を全身で感じた。とても早くて、力強い。
「ゆっくり息をしろ」
少しずつ速度を落としてゆく鼓動を聞いていると、呼吸が楽になった。
「大丈夫か?」
「ん……」
「心配させるなよ」
「ごめんなさい」
いつの間にか私と雄大さんの鼓動が重なる。
外は大雨。風が窓をカタカタ揺らす。
遠くで雷の音が聞こえた気がした。
嵐の夜は嫌い。
『あの夜』を思い出すから。
嵐で到着が遅れなければ、お義父さんは死なずに済んだのかもしれない。
意味のない後悔に押し潰されそうになるから。
けれど、雄大さんの腕の中でその鼓動を聞いていると、とても安心できた。そして、無意識に言葉が出た。
「ずっとそばにいて——」
雄大さんの鼓動がほんの少し早く、とても力強く跳ねた。