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女性看護師の一人が血相を変えて医師たちが待機している部屋へ駆け込んできたのは、それから三十分と経たない頃だった。三十代初めの妊娠中の女性の状態が突然悪化したという事だった。
あいにく産婦人科の専門医は不在だった。産科の助手の経験のある山倉が診察する事になり、亮介が彼の助手についた。病棟の廊下に寝かされていたその女性の手首を見た山倉が看護師たちに向かって突然怒鳴った。
「どうしてもっと早く連絡しなかった? 早産の可能性が高いぞ、これは」
看護師長の宮田がなるべく言い訳がましくならないようにと、気を遣った口調で答えた。
「先生、トリアージタグが黄色だったんです。マニュアルではそう……」
山倉と亮介は同時に「アッ!」と叫んだ。緊急時トリアージのマニュアルでは妊婦は他に異常が無ければ自動的に黄色と判定される。そういう決まりだった。
だが長期間、未曽有の大災害の混乱の渦中で、十分な看護を受けられない状況でもそれで大丈夫なのかどうかは、トリアージのマニュアルではそもそも想定されていない事だった。
山倉は妊婦のタグを赤に張り替え、亮介と看護師たちに分娩室へ患者を運ぶよう告げた。ストレッチャーは全て重症患者の簡易ベッドとして使っていたため、担架を使って彼女を運んだ。
女性を分娩台に乗せ、山倉が状態を診断した。どうやら災害に遭った精神的ショックとその後のストレスの高い環境で、体調が悪化し、予定より早く産気づいてしまったらしいと山倉は言った。
「本当は帝王切開が望ましいんだが……」
山倉は苦悩に顔を歪めながら言った。
「今この状況でそれは危険過ぎる。宮田さん、陣痛促進剤を限度一杯」
山倉はこのまま出産させてしまう方を選んだ。陣痛促進剤の注射から一時間もしないうちに破水が起き、女性は数分おきにうめき声を上げ始めた。
女性を手術着に着替えさせ、山倉と亮介、そして女性看護師一名が立ち会って出産の準備に入った。山倉はゴム手袋をはめた両手を慎重に動かしながら、胎児が無事に出て来られるよう女性の腹回りの筋肉の動きを調節した。
三時間後、山倉が「よし、やった!」と叫んだ。真っ赤な液体に染まった何か小さな生き物がその手の中でぷるぷると震えていた。亮介がそれが生まれたばかりの赤ちゃんであると理解するまで、数分を要した。亮介は実際の出産に医師として立ち会ったのは、それが初めてだった。
赤ん坊が「おぎゃあああ!」と、その小さな体からは想像もつかない大きな声で泣いた。山倉は、普段のよく言えば冷静、悪く言えばとっつき難いエリート然とした顔を、子供の様にくしゃくしゃに緩めて笑っていた。
「牧村先生、この子の事後処置を頼む。体の洗浄とへその緒の切除だ」
「分かりました」
亮介は赤ん坊を受け取って、おぼつかない手つきで抱きかかえ、部屋の隅に用意してあったぬるま湯でその体を丁寧に洗った。だが、 妊婦の様子を見ていた看護師が叫んだ。
「先生、母体の出血が止まりません!」
山倉が飛びつくように分娩台に戻る。止血剤を投与したが、あまり効果はなかった。山倉がうめくようにつぶやく。
「血管が傷ついたか? 血圧と脈拍は?」
看護師が分娩台の横の計器を見ながら沈痛な声で言った。
「ともに低下しています。血圧は危険水準です」
「輸血用意。血液パックを取ってきてくれ!」
それから山倉が自分で輸血用の支柱、注入用のホースと針などを用意した。戻って来た看護師を見た山倉はまた怒鳴った。
「何年看護師をやっているんだ? たった一パックで足りるかどうかぐらい、分からんのか?」
看護師は泣きそうな表情で応えた。
「その患者さんの血液型はオー型です。オー型の患者さんに使える輸血パックは、もうこれ一個しか残っていません」
山倉は口を大きく開いたまま、数秒呆然とその場で立ち尽くした。看護師がおどおどとした質問でやっと我に返った。
「輸血パックを……セットしますか?」
山倉は黙って首を横に振り、出産を終えたばかりの女性の手首のタグを、赤から黒に張り替えた。そして落ち着きを取り戻した声で看護師に言った。
「パックは保管庫に戻してくれ。怒鳴ってすまなかったな」
そして赤ん坊の処置を終えた亮介の所へ少しふらついた足取りでやって来た。亮介はちょうど赤ん坊の足首にバンドを巻き、緑と黄色のトリアージタグを手に持ってどちらにするか悩んでいた。
「牧村先生、違う、その子のタグは赤だ」
「え?」
亮介は驚いて赤ん坊を見直した。
「健康状態に問題はないと思ったんですが。僕は何か見落としを?」
「そうじゃない」
赤ん坊の足首に赤のタグを張り付けながら山倉は言った。
「この状況で生まれたばかりの赤ん坊が無事に生き延びるのは、そう簡単な事じゃない。だからこの子のタグは赤だ。この子だけは死なせない」
そう言って赤ん坊を抱き上げた山倉の言葉が涙声になりかけている事に亮介は気づいた。
「ようし、元気なボウズだ。おまえだけは死なせないからな。くそ! 死なせてたまるか!」
母親が失血死したのはそれから二時間後だった。彼女の親戚が運よく一番近い避難所にいる事が分かり、赤ん坊は後日親戚に連れられて自主避難して行った。
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