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十五日から十六日へ日付が変わろうとする頃、亮介たち医師は看護師を連れて津波肺で重篤な肺炎になった患者たちに抗生物質を注射して回った。市内に屋内退避指示が出て以来エアコンの使用が出来なくなったため、病院内はどこも凍える様な寒さに包まれた。
室内気温の低下によって肺炎患者たち、特に高齢者の症状が悪化し始めていた。特に呼吸困難な患者にのみ、携帯用酸素ボンベにつないだマスクを呼吸補助器具として装着したが、ボンベが足りなくなるのは時間の問題だった。
病棟の外に寝かされている患者には、病院の職員の寮から運んで来た毛布やシーツを何枚も重ねてかけていたが、夜間には建物の中でさえ震える程の寒さで、重傷患者の体温の低下は防ぎきれなかった。
亮介が肺炎患者の注射を行っているすぐ側で、児玉が熊の様な巨体を小さくかがめて高齢の女性と、並んで寝かされている少女の診察を行った。少女の方はその女性の孫だという事だった。
二人とも手首のリストバンドに付けられたトリアージタグは赤だった。十四日の夜からまず祖母が、半日遅れて孫の方が意識不明に陥り、一階ロビーに隅に並べられた簡易ベッドの上で、点滴を受けていた。
孫の方を診終った児玉は誰にともなくつぶやいた。
「よし、今夜が峠だな。若い分、薬の効きが早い。さて、お祖母さんの方は……」
祖母の胸に聴診器をあてた児玉はすぐに顔をしかめた。病状が軽減していない事は周りにいた誰にも分かった。児玉は自分についている看護師に肩越しに指示を出した。
「注射器、二人分用意して」
だがその三十代の女性看護師は真っ青な顔になって、一本の大型注射器を胸の前で抱えたまま渡そうとしない。児玉が振り返って小声で、しかし厳しい口調で催促する。
「君、何をしてんだ? 早くしねえか」
その看護師はすがるような目つきで言った。
「もう最後なんです」
「何だって?」
「注射用の抗生物質は、もう一人分しか残っていません。これが最後の一人分なんです」
児玉も亮介たち近くにいたスタッフも全員、言葉を失った。事務長が言っていた、薬剤の補充が出来なくなったという事実が、ついに現実の問題として露呈し始めたのだ。
児玉は引きつった表情で、祖母と孫、二人の患者に顔を近づけた。より重症で救命の可能性が低いのはどちらか、それは誰が見ても明らかだった。しかし、児玉にはそう素早く決断は出来なかった。
突然、祖母の方の患者の腕が伸び、児玉の手首をつかんだ。熊の様に頑丈な体つきの児玉が思わず唸り声を上げる程の強い力で、その高齢女性は手首を掴んでいた。たまたま一時的に意識を取り戻した様だった。何かを言いたそうに必死に唇を震わせている。この小柄な老女の、それも重態の体のどこから、これだけの力が出て来るのか? そう思いながら顔を近づけた児玉に、彼女はかすかに聞き取れる程度の小さな声で告げた。
「あたしは、もう充分生きた……孫に……孫に……」
こんな都合のいいタイミングで意識不明の患者が目を覚ます。人間というのは不思議な物だ。そんな事を考えながら、児玉は老女の手を取って握り返し、「分かった。お孫さんは必ず助ける」と老女の耳元でささやいた。
それを聞いた老女の手が児玉の手首を離し、ぱたりと毛布の上に落ち、彼女は再び意識を失った。児玉は老女の左手首のリストバンドから赤のタグをはずし、白衣のポケットから出した黒のタグと取り換えた。
思わず児玉の肩に手をかけ何かを言おうとした看護師に、児玉は目を大きく見開いた、こわばった顔で言った。
「何も言うな。孫の方の娘さんに抗生物質を投与する。早く渡せ!」
日付が十六日に変わって一時間と経たない頃、近くの避難所から消防団の班長が病院にやって来た。院長に至急の面会を求めた班長は、院長の顔を見るや否や、早口でまくし立てた。
「明日、いや、もう今日か。集団で市外に避難する事に決まった。この病院からも、連れて行ける患者がいたら、一緒に行ける」
突然の事に事態がよく呑み込めていない様子で院長が訊き返した。
「避難と言っても、どこへ?」
「新潟だ。うちの市長が新潟の県知事と話をつけてくれたんだよ。市長は自力で逃げられる者は自主避難しろって、そう通達を出したそうだ」
「自主避難ですか? しかし国からの指示は」
「市長が言ってんだよ、国の言う事いちいち聞いてたら間に合わねえって。車で自力で出て行ける連中は福島市とか、郡山市とか、あっちの方向へ行ってる。車が使えねえ住民は、明日バスが迎えに来て、新潟へ避難するんだ」
「それはいいが、一体何人受け入れてくれるんですか、新潟の方では?」
「全員だ!」
「は? 意味がよく分からんのですが?」
「だから、南宗田の住民全員だ。市の住民全員でも受け入れてやるから、来たい者は全員来いって、新潟の県知事がそう言ってくれてんだそうだ」
「それは……ありがたい事だ。分かりました。遅くとも明日の夕方までには、一緒に避難させられる患者さんを選んでおきます」
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