テラーノベル
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春が来た。
窓から差し込む光はやわらかく、部屋の空気も少しだけ軽くなる。
けれど、二人の日常は、目に見えないところで確実に形を変え始めていた。
「……あれ?」
朝のキッチンで、みことが立ち止まる。
冷蔵庫の扉を開けたまま、中をじっと見つめている。
「どうかした?」
「牛乳、どこ置いたっけ……」
すちは、すぐ横のドアポケットを指さした。
「そこ」
「あ、ほんとだ」
みことは照れたように笑う。
「最近さ、見えてるのに見えてないこと多いんだよね」
軽い冗談のように言うけれど、その目は一瞬、不安に揺れた。
すちは何も言えず、黙ってコップを差し出した。
(まただ)
“探し方”そのものが、分からなくなっている。
外出も、少しずつ難しくなった。
いつも通っていたスーパーで、みことが立ち尽くす。
「……すち」
「ん?」
「……ここ、どこだっけ」
すちは、胸の奥がひやりと冷えるのを感じた。
「スーパーだよ。ほら、いつも一緒に来るとこ」
「……そう、だよね」
みことは周囲を見回しながら、ぎこちなく笑った。
「なんか、急に知らない場所に来たみたいでさ」
カゴを持つ手が、微かに震えている。
すちは、さりげなくみことの手を包み込んだ。
「大丈夫。俺がいるよ」
その言葉に、みことはほっとしたように息を吐く。
「……うん」
そして、いつものように笑う。
「すち、大好きだよ」
それは確認するような声音だった。
すちは胸の奥で何かが軋むのを感じながらも、笑って返す。
「俺も好きだよ」
夜。
みことは、日記を書くようになっていた。
医師に勧められた“記憶を残す習慣”。
今日したこと。
食べたもの。
会った人。
感じたこと。
そして、必ず最後に同じ一文を書く。
――「すちのことが大好き。」
すちは、そのノートを偶然見てしまった。
何ページめくっても、最後の行は同じ言葉で埋め尽くされている。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
(忘れる前提で、書いてるんだ)
みことは、もう“失う未来”を知っている。
それでも、笑って愛を伝え続けている。
ある日の夕方。
すちは仕事から帰ると、玄関に座り込んでいるみことを見つけた。
「みこと?」
「……あ」
顔を上げたみことは、ほっとしたように微笑む。
「おかえり」
「どうしたの、こんなとこで」
「鍵……開けられなくなって」
みことは、小さく笑った。
「鍵の向き、分かんなくなっちゃってさ」
ポケットには、しっかり鍵は入っていた。
けれど、差し込み方が分からなかったらしい。
すちは、何も言わずに鍵を開けた。
部屋に入った瞬間、張り詰めていた何かが、すちの胸の中で崩れる。
(もう、ここまで来てる)
それでも、みことは変わらず笑った。
「ねぇ、すち」
靴を脱ぎながら、ふと、こちらを見る。
少し照れたように、でも真っ直ぐに。
「大好きだよ」
すちは、思わず目を伏せた。
「……うん」
返事をする声が、少しだけ掠れた。
その夜。
みことは眠りについたあと、寝言のように呟いた。
「……すち、すき……」
すちは、その小さな声を聞いて、胸の奥がどうしようもなく苦しくなる。
(こんなにも必死に覚えていようとしてるのに)
自分は、ちゃんと支えきれるのだろうか。
逃げたくなる夜が、増えていく。
けれど、手を離す選択肢だけは、最初から存在しなかった。
すちは、そっとみことを抱き寄せる。
「……ずっと一緒だよ」
誰に言うでもなく、そう誓った。
コメント
1件
あぁぁ、、、👑くんはもう忘れる前提で生活してるんだ、、、、 🍵くんが👑くんを最後まで支えていようとしているのも素敵でした!