テラーノベル
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みことは、仕事で小さなミスを繰り返すようになった。
書類の提出先を間違える。
同じ説明を何度も聞き返す。
予定を忘れる。
「最近、ちょっと疲れてるんじゃない?」
同僚の何気ない一言に、みことは曖昧に笑った。
「かも。俺、ちょっと抜けてるから…」
本当の理由は言えない。
――若年性認知症です、なんて。
言った瞬間に、すべてが変わってしまいそうで怖かった。
帰宅すると、すちはすぐに異変に気づく。
「今日、大丈夫だった?」
「うん、全然」
みことは、いつもより少しだけ明るい声を作る。
「むしろ楽だった」
嘘だった。
頭の中は、一日中、霧がかかったみたいにぼんやりしていたのに。
でも、すちの前では“いつものみこと”でいたかった。
「ねぇ、すち」
夕飯の支度をしながら、ふと振り返る。
「大好きだよ」
すちは一瞬だけ手を止めて、微笑んだ。
「……俺も、大好きだよ」
その笑顔を見て、みことは胸の奥で小さく息を吐いた。
(ちゃんと、笑えてる)
自分にそう言い聞かせていた。
すちがシャワーに入った音を確認してから、みことは静かに寝室を抜けた。
洗面所の電気をつけず、暗いまま、床に座り込む。
膝を抱えて、顔を埋める。
「……忘れたくない」
声は、喉の奥で潰れる。
「すちの声も、匂いも、手のあったかさも……」
息が、震える。
「……俺、忘れたくないよ……」
涙が、ぽろぽろと床に落ちる。
声を出したら、すちに聞こえてしまう気がして、唇を噛みしめる。
嗚咽は、胸の中に押し込める。
(忘れたら、俺、俺じゃなくなる)
すちを好きな自分を忘れたら、何が残るのだろう。
怖い。
どうしようもなく、怖い。
みことは、泣き終わると、丁寧に顔を洗った。
鏡の中の自分に、無理やり笑顔を作る。
「……大丈夫」
小さく呟く。
「俺、ちゃんと笑える」
目は少し赤いけれど、照明を落とせば分からない。
深呼吸をして、何度か瞬きをしてから、寝室に戻った。
「遅かったね」
ベッドの上で、すちがスマホを置いてこちらを見る。
「ちょっと喉乾いて…」
自然な声で答える自分に、少しだけ安心する。
布団に入ると、すちは何も言わず、みことを抱き寄せた。
「……あったかい」
みことは、甘えるようにすちの胸に額を擦りつける。
そして、いつもの言葉を口にする。
「すち、大好きだよ」
すちは、みことの髪に顔を埋めたまま、小さく答えた。
「……うん」
その声が、ほんの少しだけ震えていたことに、みことは気づかないふりをした。
翌朝。
みことは、何事もなかったように朝食を作り、笑顔で送り出す。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
ドアが閉まった瞬間、みことは一気に力を抜いた。
壁に背中を預け、ゆっくりとしゃがみ込む。
(今日も、忘れなかった)
それだけで、少しだけ救われる。
けれど、“いつまで”それが続くのかは、誰にも分からない。
一方、すちは気づき始めていた。
夜中、洗面所の床がわずかに濡れていること。
みことの目が、時々、不自然に赤いこと。
笑顔の奥に、消えない緊張があること。
(……一人で泣いてる)
確信に近い予感が、胸に沈んでいく。
それでも、すちは何も言えなかった。
みことが“見せない”と決めた涙に、踏み込む勇気が持てなかった。
コメント
1件
愛する人をわすれる恐怖とたたかってる黄ちゃんをみてると胸が痛い・・