「うぅーん、このサーロイン最高……!」噛むたびに、じゅわっと肉汁の旨味が広がる。「ああ、もう本当……こんな美味しいお肉、わたし、食べたことがない……!」
「美味しいね」ナイフで肉を切り分け、微笑する課長。「美味しいものを好きなひとと食べられるなんて、本当に、おれは幸せだ……」
「課長……」
「あのさぁ。おれたち意外と……話、してこなかったじゃない? おれは、莉子の話が聞きたい。莉子の生い立ちや……莉子が大切にしてきたものを知りたい」
そうか。料理を堪能することに溺れてすこーんと抜けていた。知りたい。知りたいと思っていたはずなのに。――でも、いま、そんなことを話すことに果たして意味があるのかな? 疑問を覚えつつも、わたしは口を動かした。
「生まれたときからそうですね……『川越カンターレ』のサポーターで。気が付けばチャントを口ずさんでいました。チャントって、応援歌ですね。……それを歌うと胸が熱くなる。選手を鼓舞する意味のみならず、歌う観客自身を煽る効果もあるんですよね……チャントは」
興味のない話題だろうか。しかし、真剣に見つめる課長の眼差しに焦がされるような感動を覚えながらも、わたしは情報の整理に着手をする。
「父が、……熱心な『川越カンターレ』のサポーターで。いえ、元々サッカーは好きだったんですけど、彼の時代はサッカーよりも野球が人気で。祖父の意向もあって、サッカーはやらせて貰えず。草野球で外野を任されて暇で暇で……草むしりばかりしていたと言っていました」
小さく課長が笑う。よかった。わたしの言葉は彼に届いている。
「それに。父の小さい頃にはJリーグはありませんでしたから。アマチュアのサッカーチームしかありませんでした。キングカズ、ラモス瑠偉、ジーコ……輝かしいばかりのJリーグの歴史を、父は、胸に刻んで過ごしたと聞きます。
母は元々、そんなにはサッカーには興味はなかったみたいです。でも、父は、母を口説き落として……母のひとりで住むアパートに同棲生活を送るようになって。部屋、六畳一間のアパートで。超狭かったらしいです。でも、その狭さが、若者たちの愛を……煽ったんでしょうね」
わたしは、自分のマンションで課長と何度も、めくるめく夜を過ごしたことを思い返している。
「それで、ふたり揃って『川越カンターレ』のサポをやるようになって。生まれた子には必然、サポーターになる運命が待ち受けていまして。……なんだろう。最初は興味なかったんですよそんなに。
でもサッカーって独特の『熱』があるじゃないですか。野球や他のスポーツと違って滅多に点が入らない。だからこそ観客は期待する。いつ、……点が入るのか。それに、サッカーって、45分間を二本やるから、ハーフタイムのあいだに戦略を変えて、劣勢だったのが一気に優勢になる。すさまじい逆転劇も起こりうる。
わたしの記憶している『川越』の最高の試合は……ホームで0-5だったんですよ。それが。後半二十五分、途中出場の選手がいきなり、華麗なるループシュートを決めて。もしかしたら。もしかしたら……って空気がスタジアムに流れ出したんです。
そこからはもう、怒涛の展開で。ああいうときの勢いって誰にも止められないんですね。こちらもこちらでサポーターとして煽りまくるし……喉が枯れるくらいに叫んで。応援して。その熱気が伝わってか……選手の気迫もすさまじくって。
残り十分で、PK決めて。コーナーキックでずとん! 3-5.……それからなんと、相手の選手が危険なスライディングで一発退場になって。ひとり、向こうが少なくなったんです。
……救われたのは、相手が、がっちがちの守備を固めなかったことですね。相手も攻撃サッカーをうたうチームですから、前がかりになって、三点も取られたことを屈辱に思ってか、攻めてきたんです。そこが青臭いところというか……。優勝するチームだったら、そんな戦術は絶対に取らないはずです。そこも含めて、あの試合は見所があって……。どっちの攻撃サッカーが勝利するのか!? 固唾をのんで……いえ、絶叫しながら見守っていましたね。試合の行方を……。
途中から雨が降ってきて。慌てて合羽着て、濡れないよう、荷物を袋に入れて。勿論チャントを叫びまくったまま。そっから、また、点が入って。また、入って。
後半45分。ロスタイムが何分か発表されたときにどよめきが起こりました。――五分。五分もあったんです。相手にとってはこれ以上ないくらいに長い時間だったでしょうね。
相手は、流石に、時間をかけて交替のカードを切るくらいのことはやりましたが、でも、真っ向勝負だった。息を呑む攻防が繰り広げられ、力いっぱい選手たちを応援しました。『川越ーラララララララー』って。
ラスト一分。フリーキックのチャンスを得たうちの選手が、まさかの軌道を描く、ぐっ、と曲がるキックを蹴って、それが直接ゴールに吸い込まれた。
怒号のような地響きが巻き起こりました。スタジアムいっぱいに地鳴りのような轟きが突き抜けて、一気にわたしたちを興奮の渦へと飲み込みました。……わたし、あれ、一生忘れられません。サポのあいだで永遠に語り継がれる伝説の試合ですね。『雨の川越』……」
課長の微笑を見て思う。……あれ、なんでわたしこんな話してたんだっけ? まあいいや。とにかく、
「一生懸命にやることって、馬鹿馬鹿しいことだって、他人には笑われることもあるかもしれませんが……あの試合を思い起こせば奮い立ちます。一生の思い出ですよね……。あの瞬間、あの場所にいたことが奇跡だった……だからわたし、サッカーは嫌いになれないんです。どんなことがあっても……」
わたしはこころのなかで言い足した。
――課長のことも。
* * *
上品なマゼントカラーがアクセントとなった部屋に、見れば、足が――
「猫脚?」とわたしはソファーの足を覗き込んだ。「すごいですね。小さなところにまでこだわりがある……それにこの、夜景!」
きらめく海のような絶景が広がっている。窓いっぱいに映し出される景色の美しさといったら……! 神がきまぐれで星という宝石を散りばめたかのような美しさだ。
「きゃあ、すごいすごいすごい! すっごい……綺麗……!」
わたしは窓に近づき、絶景を覗き込んだ。――このなかに、どれだけの命があるのだろう。同じように、悩み、苦しむひとはいったいどれだけいるのだろうか。
わたしが夜景を眺める一方で、課長はこちらに来る気配がない。不思議に思って振り返れば、彼は――ベッドに片足を立てて座り、じっとこちらを見ていた。彼はわたしの目線に気づくと、
「……いや、綺麗だと思ってな……」
誤解してはいけない。彼は、夜景のことを言っているのだ。
わたしは声がふるえるのを抑え込み、彼に告げた。「……そっちに行っていいですか」
「――勿論。おいで……莉子」
ゆっくりと彼の腕のなかに入る。宝物のように包まれ、幸せな心地がした。――神様。この夜を、永遠にして……。課長の腕のなかで一生を終えさせてくれるのなら、わたし、なにもいらない……。
彼の鎖骨辺りに頬を預け、わたしは言った。「……課長。セックスしないんですか」
顔の見えない課長は、「……セックスだけが目的の男だと思われたくはないから……しない」
「じゃあ、キスは……」
「いい」と課長が首を振る気配。「……触れているだけで幸せなんだ。莉子。……ごめん。苦しませてしまって……。おれが、馬鹿だった」
「今更そんな弱音――聞きたくないです。わたし、決めたんです。……課長には、もっと、課長にふさわしい相手がいるだろうって……だからわたし、決めたんです」
わたしは彼の腕のなかで顔を起こし、彼のその唇に口づけてから告げた。
「あなたに――さよならをするって」
* * *
朝は、いつも独特の匂いがする。その気配を感じると気分がしゃきっとする。わたしは手早く身支度を整えると、ベッドでまだ眠る――課長を見つめた。眼鏡を外して眠るさまが子どものように愛らしい。
疲れているのだろう。そっとしておいてやろう。
わたしは彼の頬に触れ、身を屈め、そっと口づけた。――遠くにいても。近くにいても。あなたの幸せだけを祈っている。だから、……幸せになって。
さて、と。
窓から眺められる美しい景色を目に焼き付け、わたしはベッドサイドにメモを残し、ひとり、部屋を出た。……スイートルームっていうのかな、ああいうの。あんな素晴らしいお部屋に泊まれるなんて一生に一度の体験だろう。素晴らしい経験をくれた、課長には感謝をしなくては。
『さよなら。ありがとう』
綺麗な思い出を胸に残して欲しかった。みっともないところも、情けないところも見せたけど、綺麗なところだけ……あの彼が望んだ笑顔だけを胸に焼き付けて欲しかった。
これだけでもう、十分。
建物を出る頃にはこころの整理がついていた。課長は、たくさんの思い出をくれた。一生を楽しく過ごせるくらいの、宝物のような思い出を。だから――生きていける。わたしは課長へのあでやかな想いに鍵をかけ、新しい未来へと一歩を踏み出した。
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