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「岡野が山中部長補佐しか見ていないってことは、分かってる」
宍戸の言葉に、みなみははっとして目を見開いた。
彼のまなざしには、苦い思いがにじんでいる。
宍戸は足元に目を落として話し続ける。
「岡野がただ一人の人しか見ていないのと同じように、俺だってそうだ。岡野しか見ていない。好きだという気持ちを簡単には消せない。俺はお前の側にいたいし、お前に傍にいてほしいと思う。なぁ、俺じゃだめか?」
みなみは宍戸から目を逸らした。どう答えるべきかと恋愛に関する知識の乏しい頭で考える。気持ちを向けられたからと言って、その相手を受け入れられるかというとそうではない。自分が好きな人は山中だ。どうあっても宍戸の気持ちには応えられない。宍戸は真っすぐに想いを伝えてくれた。だから自分も正直に、そしてはっきりと答えるべきだ。どんなに言葉を飾っても、彼を傷つけることに変わりはない。意を決したみなみは、かすれそうになる声を励まして宍戸を見つめる。
「ありがとう。私のことをそんな風に想ってくれていたなんて、すごく驚いたけど、気持ちは嬉しかった。だけど私は、宍戸と同じ気持ちを返せません。ごめんなさい。宍戸には、私なんかより、もっとずっとふさわしい人がいるはずよ。だから私のことはもう……」
最後まで言うことができなかった。あっという間のその出来事に気づいた時にはすでに、みなみは宍戸の胸に抱きすくめられていた。混乱し、彼の腕から逃れようともがく。
しかしみなみを逃がすまいとするかのように、彼はその腕に力を込める。
「好きな相手から『他にいい人がいる』なんて言われるとはな。で、その先はなんて言おうとしたんだ?諦めて?」
恨みがましい声で言いながら、宍戸はみなみの髪に顔を寄せる。
「いい匂いだな」
彼の声に熱を感じて、みなみはどきりとした。彼の「男」の部分が急に意識されて、鼓動が早まる。
「離して」
「簡単に諦められるような、軽い気持ちじゃないんだよ。そういうの、岡野にも理解できるだろ?」
言い終えて宍戸はみなみの耳に軽く歯を立てる。熱い吐息がかかったせいで頭の芯が震え、声が洩れてしまう。
「あ……」
みなみの耳を咥えたまま宍戸は囁く。
「風呂上がりって分かる、そんな隙だらけの格好でいるのが悪いんだからな」
「隙なんて、そんなんじゃない。これはただ……」
確かに下着くらい着ける暇はあっただろう。けれど、時間がないと気が急いてそこまで頭が回らなかったのだ。それは宍戸のせいだと文句を言おうとした。しかし彼の言葉に封じられる。
「好きだよ」
言いながら宍戸はみなみを抱き締め、さらに熱を増した吐息と共に唇を耳から首筋へと移動させていく。
「宍戸、お願い。やめて……」
みなみは抵抗の言葉を宍戸にぶつけ、もがきながら首を反らした。ちょうど目の前にあった彼の頬に思いっきり嚙みつく。
「いって……!」
手加減はしなかったから、だいぶ痛かったはずだ。その痛みと驚きとで、宍戸はようやく正気に戻ったようだった。みなみを解放し、噛まれた部分を手でさすっている。
「まさか嚙みつかれるとはな」
悪びれもせずただ苦笑している宍戸に、みなみは震えるほどの怒りを感じていた。
「いったいどういうつもり?」
「ごめん。悪かったよ」
言うほど悪いとは思っていないような顔に、平手をお見舞いしてやりたくなる。
宍戸は照れ臭そうに笑う。
「お前のことあまりにも好きすぎて、我慢できなくなったんだよ。許して」
「はぁっ?」
みなみは拳を握りしめて宍戸を睨みつけた。
「最低!信じていたのに」
彼は全く動じず、壁に背を預けて唇を歪めた。
「信じる、ねぇ……。結局岡野は、俺のことを無害な男だと思ってたってことだろ?」
宍戸は腕を組み、みなみをじろりと見た。
「俺のことなんか男として意識していないから、あっさりと玄関に入れたんだよな。しかもそんな格好でさ」
「それはだから、宍戸を信頼してるから……」
「信頼って、どういう意味で?」
「どういう意味も何も、言葉通りよ。宍戸は頼りになる同僚で、信じられる人だと思ってたから、ずっと仲よく付き合っていけたらいいなと思ってたわ。残念ながら、それも今日で終わりだけどね」
宍戸は乾いた声で笑う。
「信用ガタ落ちだな」
「自業自得でしょ」
みなみはひんやりと冷えた声を出す。
「何となく感じてはいたけどさ。俺は岡野の恋愛対象外だって、改めてはっきりと現実を突きつけられると、やっぱりへこむな」
宍戸はこれ見よがしに大きなため息をつき、体を起こしてみなみに問いかける。
「俺のこと、どうしたら意識してくれる?」
宍戸の目は真剣だ。
その視線を受け止めきれず、みなみはふいっと顔を背けた。いつか宍戸と今まで通りの関係に戻り、今日のことをあははと笑い飛ばせたらいいのにと思う。それは自分勝手な思いだと分かってはいるが、祈らないではいられない。
「今夜のことはなかったことにするから、もう帰って」
「俺はなかったことにはしたくない。岡野との関係も、これから変えたいと思ってる」
ひしひしと伝わってくる宍戸の想いに、胸が苦しくなる。みなみは顔を伏せた。
「さっきも言った通り、私は宍戸の気持ちには応えられないの」
すると宍戸はみなみの目の前に、何かを差し出した。
「やるよ」
「映画のチケット?もしかして、この前言ってた?」
「あぁ。それを口実にして、あの人のこと、誘ってみれば?」
唐突すぎる宍戸の提案にみなみは戸惑った。彼の意図が読めない。
「いきなり何なの?」
「いいから受け取れよ」
「受け取れないわ」
なかなか手を出さないみなみに、宍戸は強引にチケットを握らせた。唇の端だけを器用に上げてにやりと笑う。
「それを使って、補佐との現状にさっさと決着つけろよ。ホントのこと言うと、俺、岡野が補佐にフられるのを待ってた。で、お前が弱ってるところにつけこむつもりでいたんだ。だけどお前ってば、なかなか行動に移さないんだもんな。おかげで、うっかりフライングしてしまっただろ」
「フライングって……」
ついさっき自分の身に起きた事故のような出来事を思い出して、みなみは真っ赤になった。
宍戸はにっと笑う。
「さっさと補佐にフられて俺の所に来い。いくらでも甘やかしてやるよ」
「な、何言ってるのよ!」
縁起の悪いセリフに腹が立ち、みなみは宍戸を睨んだ。
彼は意地悪そうに唇の端に笑みを刻む。
「結果はちゃんと教えてくれよ」
「ど、どうして教えなきゃならないのよ。帰ってよ!」
みなみは腕を伸ばし、宍戸の背をぐいぐいとドアの方へと押しやった。
「はいはい」
宍戸はくすくすと笑いながら返事をし、ドアノブに手をかけた。
そのまま外に出て行くかと思いきや、彼は振り返りざまにみなみの唇を塞ぐ。
「んっ……!」
みなみは彼を突き飛ばそうとした。
しかしそれよりも早く、宍戸は素早い動きでみなみから離れる。
「な、なんなのよ!」
「今のキスがお礼代わりってことで。だいたいさ、他の男とのために、わざわざ好きな女の背中を押すなんてお人好しは、俺くらいだからな。じゃ、また会社で」
宍戸はみなみに背を向けようとしたが、ふと足を止めてにやりと笑った。
「岡野って、けっこう胸あるんだな。お前に噛みつかれなかったら、俺の自制心、やばかったかも」
「っ……!」
今度こそ手が出そうになったが、宍戸が外に出る方が早かった。憎たらしいほど鮮やかすぎる去り方に、改めてじわりじわりと怒りがこみあげてくる。しかしそれをぶつける相手はもういない。やっぱり一発くらい殴ればよかったと後悔しながら、宍戸の唇の感触をきれいさっぱりと消し去るために、みなみは何度も何度も手の甲で唇をごしごしと拭った。