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宍戸は自分の足元に目を落とす。
「だけど、それは俺だって同じだ。岡野だけを見てた。好きだっていう気持ちを簡単には消せない。俺はお前の側にいたいし、お前に傍にいてほしいって思う。……俺じゃだめなのか?」
「そんなこと言われても……」
私は息苦しくなって、宍戸から目を逸らした。恋愛経験が少なすぎる私の頭の中はすでにパンク寸前だったけれど、それでも私は考えようとした。
どうすれば宍戸を傷つけずに断ることができるだろう。どんな言葉を選べば、彼は納得してくれるのだろう――。
宍戸は私の答えを待つように、じっと黙ったままだ。
静けさが重苦しく積み重なっていく中、私は彼の視線をひしひしと感じて、追い詰められたような気分になっていた。
ドアの向こう側で靴音が聞こえたのはそんな時だ。それはだんだんと近づいてきた。
通路にまで会話はもれていないはずだったが、私たちははっとして互いの顔を見合わせた。
その足音は私の部屋の前を通り過ぎると、何軒か先の部屋の前で止まった。どうやら他の部屋の住人が帰ってきたらしい。ドアの開閉音が小さく聞こえた。
我が家への訪問者ではなかったことにほっとする。けれど今の靴音は、気持ちを切り替えるきっかけを私に与えてくれた。心を落ち着かせるために自分の胸の上に手を置き、とても長い息をはいた。
私は宍戸が好きだけれど、それは同僚として、あるいは友人としてであって、恋愛感情にはなり得ない「好き」だ。だから、彼の気持ちには応えられない。宍戸は真っすぐな言葉で気持ちを伝えてくれた。だから私も素直に、けれどもはっきりと答えるべきだと思った。どんな言い方をしても、彼の心が痛むことには変わりはないだろうから、と。
意を決して私は顔を上げた。詰まりそうになる喉を励まして、宍戸の顔から目を逸らさないようにと努めながら口を開いた。
「ありがとう。私のことをそんな風に想ってくれていたなんて、すごく驚いたけれど気持ちは嬉しかった。でも、私には好きな人がいる。宍戸と同じ気持ちを私は返せない。ごめんなさい」
宍戸は身動きせず、私の言葉にじっと耳を傾けていた。
私は続けた。
「きっと宍戸には、私なんかよりもずっとふさわしい人がいるはずよ。だから私のことは……」
私の言葉はそこで途切れた。いや、最後まで言うことができなかった。
「し、宍戸っ……!」
それはあっという間の出来事で、抵抗できなかった。視界が一瞬黒く遮断されたと思った時にはもう、私の体は彼の両腕の中に引きずり込まれていた。
「離して!」
私は腕を突っ張ってその腕の中から逃れようと試みた。
宍戸はその腕に力を込めて、私を逃がすまいとするかのようにさらに強く抱き締めた。
「好きな相手から『他にいい人がいるよ』なんて言われるのは、分かってはいてもやっぱりダメージあるな。で、その先は?忘れてって言おうとした?それとも諦めて?」
恨みがましくそう言うと、宍戸は私の髪に顔を寄せた。
「いい匂いだな」
私はどきっとした。熱を帯びたその言い方に、宍戸の「男」の部分を感じてしまった。こんな時にそんなことを思うなんてどうかしている。
「やめて」
私はもがいて宍戸の腕の中から抜け出そうとしたが、その腕はびくともしない。
宍戸は私の耳元に囁いた。
「簡単に諦められるんなら、苦労しない。岡野にもそういう気持ちは理解できるだろ?」
そう言い終えると、宍戸は私の耳にそっと歯を立てた。
「やめてよ……」
耳の辺りがカッと熱くなった。頭の芯が麻痺しそうになって、抵抗の言葉に力が入らない。
私の耳を噛んだまま宍戸は囁く。
「風呂上がりって分かる、そんな隙だらけの格好で俺の前にいるのが悪い」
「そんなことは……」
ない――。
宍戸の言葉を否定しようとして、私ははっとした。うっかりしていたけれど、今夜はずっと部屋にいるだけだからと、素肌の上に服を重ねていただけだった。しかも髪にはまだ湿り気とシャンプーの匂いが残っている。自分ではいつも通りのことだったけれど、他人から見たら確かに隙だらけとしか言いようがない。こんな状況では宍戸だけを責められない。
「そんな姿で現れて、誘ってるって思われても仕方ないだろ」
宍戸はそう囁き続けるが、もちろん私にはそんなつもりは一欠けらもない。
「全然そんなんじゃない。離して――」
否定し、抗う私の声は、宍戸の耳には届いていない。彼の吐息はますます熱を帯びていく。背中に回したその腕で私を絡め取ろうとしながら、唇を私のこめかみへと滑らせた。
「宍戸、お願い、離してったら!」
私は声を振り絞りながらそう言うと、もがきながら首を反らし顔を上げた。ちょうど目の前に彼の顎が見えて、私はそこに思いっきり歯を立てて嚙みついた。
「いって……!」
それはけっこうな痛みだったんじゃないかと思う。その痛みと驚きとで、宍戸はようやく私から腕を離し、私に噛まれた部分をさすりながら苦笑を浮かべた。
「まさか嚙みつかれるとは思わなかった」
悪びれもせずに平然としている宍戸に、私は震えるほどの怒りを感じていた。
「どういうつもりなの。からかってるの?」
「ごめん。悪かったよ」
実際はたいして悪いとは思っていなさそうなその顔に、平手の一つもお見舞いしてやりたいと手が出そうになった。
それなのに、宍戸は飄々としてこんなことを言う。
「お前のことあまりにも好きすぎて、我慢できなくなった」
「っ……!」
私は両手を握りしめた。
「最低!信じていたのに」
自分をにらみつける私に動じることもなく、宍戸は私を見返した。
「信じる、ねぇ……」
壁に背を預けて、宍戸は苦々し気に唇を歪めた。
「岡野は、俺のことを無害な男だと思ってたんだよな。全然意識もしてなかったみたいだし」
宍戸は腕を組むと私を横目で見た。
「岡野は俺のことなんとも思っていないから、ドアの内側にあっさりと入れたんだよな。しかもあんな格好でさ」
「それは、宍戸を信頼してたから……」
「信頼って、どういう意味で?」
「どういう意味って……。言葉通りよ」
怒りはまだまだ収まっていない。それなのに、暴挙を仕掛けてきた張本人と私は会話を続ける。どうしてと思いながらも、私の口は動く。
「宍戸は頼りになる同僚で、気兼ねなく付き合えてたから、できればずっと仲よくやっていけたらいいなと思ってたわよ。……残念ながら、それも今日で終わりだけど」
宍戸は乾いた声で笑った。
「信用ガタ落ちだな」
「自業自得でしょ」
私はひんやりと冷え切った声でそう言うと、じろりと宍戸を睨んだ。
宍戸はそんな私を見て苦笑を浮かべ、これ見よがしに大きなため息をついた。
「俺は岡野の恋愛対象から外れてるかもって、そんな気はしてたけどさ。改めてはっきり言われるのは、やっぱりへこむな」
「それは……」
「なぁ」
宍戸は体を起こして私に問いかけた。
「どうしたら、俺のこと、意識してくれるんだ?」
私に向けるその眼差しは、よく知っているはずの宍戸ものではなかった。私の怒りが薄れてしまいそうになるほど真剣だった。彼の視線を受け止めていられなくなり、私は逃げるように宍戸からふいっと顔を背けた。
「そんなこと言われても困る。今夜のことはなかったことにするから、もう帰って」
せめて事故だったことにして、いつか笑い飛ばせるようになったらいい、宍戸と今まで通りの関係に戻れたらいい、と思った。それは自分勝手だと分かっている。だからその本心を口にはしない。
「さっきはつい謝ってしまったけど、俺はなかったことにはしたくない。岡野との関係だって、できることなら変えたい」
顔を見なくても、宍戸の声や口調から真剣な気持ちが伝わってくる。
私はうつむいた。
「……でも、私はそれに応えられない」
すると宍戸が不意に口調を変えた。
「それなら、これ、やるよ」
そう言って私の目の前に何かを差し出した。
「……映画のチケット?もしかして、この前言ってた?」
「あぁ。それ、やるよ。あの人のこと、誘ってみれば?」
「え……」
唐突すぎる宍戸の提案に、私は困惑した。
「いきなり何?」
宍戸の意図がよく分からない。
眉を顰める私に宍戸は言った。
「いいから受け取れ」
なかなか手を出さない私に、彼は押し付けるようにチケットを握らせる。
「え、だって……」
宍戸は器用に唇の端だけを上げてにやりと笑った。
「それ使ってさっさと決着つけろよ、補佐との関係をさ。ほんとのこと言うと、岡野が補佐にフられるのを待ってたんだよ。で、お前が弱ってるところにつけこむつもりでいたんだ。それなのに、岡野がなかなか行動に移さないでいつまでもだらだらしてるから……。うっかりフライングしてしまったじゃないか」
「何をばかなことを……」
自分の身に降りかかった、災難のような事故のような出来事を思い出して、私は全身が熱くなった。
それに気が付いて、宍戸はにっと笑う。
「またフライングされたくなかったら、さっさと補佐にフられて俺の所に来いよ。いくらでも甘やかしてやるから」
「っ……!」
私は呆気に取られた。こんな気障なセリフを聞いたのは生まれて初めてだ。宍戸らしいと言えばらしいような気もするけれど。
私の動揺する様子に宍戸は満足そうに、けれど少し意地悪そうに唇の端に笑みを刻むと、ドアノブに手を伸ばしながら付け加えた。
「後でどうなったか、ちゃんと教えてくれよ」
「どうして教えなきゃならないの」
宍戸は私を可笑しそうに見てくつくつと笑った。
色々と見透かされているようで、ものすごく悔しい。
「もう帰って」
私は腕を伸ばして、彼の背をドアの方へと押し出そうとした。
その一瞬だった。宍戸が振り返りざまに私の唇を塞いだのは。
「ん、んーっ……」
驚いて突き飛ばそうとする私よりも早く、宍戸は素早く私から体を離した。
「な、なんなのよ!」
睨みつけた宍戸の顔には、満足そうな色がちらと浮かんでいた。
「別の男とのためにわざわざ好きな女の背中を押すなんてお人好しは、俺くらいだろ。お礼は今のキスってことで勘弁しといてやるよ。ってことで、また会社でな」
「…!」
「あ、そうだ。岡野ってけっこう胸あるんだな。お前が部屋から出てきた時、試されてるかと思ったわ」
「宍戸っ……!」
今度こそ手が出そうになったが、残念ながら、宍戸が私の前から姿を消す方が早かった。憎たらしいほど鮮やかすぎる去り方だった。じわじわとお腹の底の方からとてつもない怒りがこみあげてきたが、目の前に今それをぶつける対象はいない。
やっぱり一発くらい殴ってやればよかった。今度会ったら絶対にやってやる――。
私はそんな物騒な決意を固める。宍戸が残していった唇の感触をきれいさっぱりと消し去るために、何度も何度も手の甲で唇をごしごしと拭った。