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意識しないようにと思っていても、なかなか難しい。宍戸から告白されたあの日以来、彼を見かけるたびにあの時の同期の熱が思い出されて、私の心はざわめいた。そんな時は山中部長補佐の顔を思い浮かべて、宍戸の映像を払いのけていた。
補佐と言えば――。
以前よりも目が合うようになったと思うのは、私の思い込みだろうか。補佐の忙しさは相変わらずかそれ以上のようだったが、会社にいる時には親し気な顔で笑いかけてくれることが以前よりも増えたように感じていた。そこに特別な意味はなかったとしても、遼子さんが退職してから心細い毎日を送っていた私は、その笑顔に励まされていた。
それにしても、とパソコンのキーボードをたたきながら私はため息をつき、すっかり片付いてしまった隣のデスクを見た。
遼子さんにどれだけ頼って、甘えていたんだろう――。
彼女の退職からもうすぐひと月。頼りにしていた存在が隣にいないということに、慣れることができない。仕事はなんとかひと通り覚えたし、相談できる先輩も上司もいる。孤立無援というわけではないのだけれど、心細さはそう簡単にはなくならない。しっかりやらなければと気持ちが張り詰めているせいもあってか、ここ最近はずっと眠りが浅かった。
そして今朝もやっぱり、私は胸の辺りがつかえるような緊張感を抱えて出社した。体調が悪いわけでも仕事が嫌いというわけでもないのだが、足が重い。
冷たいお茶でも飲んで気分を変えよう――。
荷物をロッカールームに置くと、私は休憩スペースに向かった。
宍戸とばったり出くわしたのはその途中だった。
あの『事件』の日から、彼と直接顔を合わせるのは久しぶりだったから、どんな態度を取ればいいのか迷ってしまった。宍戸の行いを完全に許したわけではないから、無視してもよかった。けれど、そこまで彼のことを嫌いになったわけではない。そして、私には非がない。だから顔をしゃんと上げると、私はあえて彼の目を真っすぐに見た。
「おはよう」
私から声をかけてくるとは思っていなかったのか、宍戸は戸惑った顔で足を止めた。どうしようかと迷うように目を揺らしていたが、結局諦めたのか、気まずいような表情を浮かべて挨拶を返してよこした。
「おはよ」
しかしそれ以上は、私も宍戸も、会話を続けるための言葉を見つけられなかった。
元通りは無理なのかな……。
仕方のないこととは言え少し寂しく思いながら、私は彼の横を通り過ぎようとした。
ところが、宍戸の手に突然腕を捕らえられた。ぎょっとして私はその手を振り払う。
「やめてよ、こんな所で」
私は彼を睨みつけた。
「あ、ごめん」
宍戸はあっさりと手を放した。それからふっと身をかがめて、私の顔を覗き込んだ。
「何……?」
私は警戒して後ずさった。
しかし宍戸は私の顔から視線を外さない。しばらくの間じっと見ていたが、体勢を戻すと心配そうな顔をした。
「岡野、大丈夫か?顔色、あんまり良くないみたいだぞ」
「え、そう?」
私は反射的に頬に手を当てたが、はっとして固い表情を慌てて作る。この前のことを完全に許してはいないことが伝わるように、私はつっけんどんに言った。
「光の加減でそう見えるだけでしょ」
宍戸は私の口調にむっとすることはなく、気がかりそうな顔で私を見ている。
「そういうんじゃないだろ」
「もしかして、心配してくれてるの?」
あんなことをしておきながら――。
言外にそんな皮肉を込めたつもりだったが、宍戸は真顔で頷いた。
「あぁ、心配してる」
真面目に返されてしまった私の方が戸惑ってしまう。
怒りを持続できない――。
私はぼそぼそと礼を言った。
「それは、ありがとう……」
「ここ最近元気なかったみたいだから、気になってたんだよ。大丈夫なのか」
私を気遣う言葉を口にする宍戸から、私は目を逸らした。自分の意志に反して、涙腺が緩みそうになるのを隠したかった。
「顔色もあんまり良くないしさ。遼子さんがやめて、一人で仕事とか抱え込んだりしてるんじゃないだろうな。課長とかにちゃんと相談して……」
私はうつむいたまま宍戸の言葉を遮った。
「それは、大丈夫」
仕事の量に関しては、上司も先輩もしっかりと配慮とサポートをしてくれているから、宍戸が心配するようなことはない。顔色が冴えないのは、気を張り続けていることからきている寝不足だ。心細いのは、単に自分の気持ちの問題だ。それでも、宍戸が私の様子をおかしいと感じて優しい言葉をかけてくれたことが嬉しく、涙がにじみそうになる。
今の私は弱ってる――。
「そろそろ行かなきゃ」
宍戸に弱い自分を見せたくない。私はこの場から逃げようと歩き出した。
それを宍戸の声が止める。
「岡野」
背を向けたまま立ち止まる私に、彼は言う。
「早くいつものお前に戻ってくれよ。そうでないと全然張り合いがないし、困る」
言っている内容は憎たらしく聞こえたが、その声は優しい。
「困るって何が」
いつの間にか鼻声になっている私に、彼はにっと笑った。
「早く決着つけてくれってこと。ぐずぐずしてるとチケットの期限切れるぜ」
そう言うと宍戸は大股歩きで、もと来た方へと歩き去った。最初はゆっくり、けれど途中で急ぎ足に変わった。
私は指先で目尻を軽く拭いながら、まさかと思う。
もしかして、わざわざ足を止めてくれた?私を励まそうとしてくれた?
本当はどうなのか分からなかったが、それはありえそうな気がした。口は悪いけれど優しいあの同期なら。
嫌いになれない――。
苦笑とともにため息を吐き出した後、私の口元は自然と綻んだ。なんだかんだ言いながら、私はすでに宍戸のことを赦しているのだと思う。
その日から、少しずつではあったけれど私の気持ちは落ち着き始めた。状況に慣れてきたからなのか、開き直ったからなのか。それとも、私の気持ちを察してくれている誰かがいるということに、安堵と力強さを感じたからなのか。その誰かが宍戸だったから、というわけではないとは思うが。
そうなると、今度は新たな悩みが生まれていた。宍戸から押し付けるように渡された映画のチケットのことだ。
忘れたふりをしようかとも思ったが、すぐにそれは無理だと考え直す。宍戸を延々と避け続けるのは、私自身が退職でもしない限り不可能だ。いや、連絡先も住まいも知られているのだから、退職したとしても無理か……。それ以前にそんな理由で会社をやめたくはない。
それよりもまず、山中部長補佐にどうやって近づけばいいのか。会社ではなかなか会えないし、個人的に話すチャンスもない。業務用の携帯は持っているはずだが、そこにかけるのもどうかと思うし、個人の連絡先も知らないから、あとは偶然を待つしかない。
チケットの期限まであと一か月と少し。やっぱりこのまま知らんぷりを決め込むか。でもそうなると、私自身、また結論を先送りするだろうことは目に見えている
私はロビーを歩きながらぐるぐると考えていた。今日は久しぶりに外での用事を仰せつかって、戻ってきたところだった。エレベーターホールの前で立ち止まり、エレベーターの到着を待つ。
背後から名前を呼ばれた。
「岡野」
声の主は私を悩ませている一人、宍戸だった。営業帰りのようだったが、いつもペアを組んでいる先輩の姿が見えない。
「お疲れ」
宍戸はそう言って私の隣に立った。
「お疲れ様です」
私は目を伏せながら挨拶を返した。心の中ではもうほとんど宍戸のことを赦してはいたが、以前と同じような笑顔を作るのはまだ少し難しい。だから口調もついよそよそしいものとなる。
「何だよ、その言い方。変に丁寧で気持ち悪い」
宍戸は大げさなくらい、眉を上げた。
「……なんとなく?」
私は苦笑と微笑とを混ぜ合わせた曖昧な笑みを浮かべる。
「やめてくれよ。なんだか背中の辺りがムズムズしてくるから」
「失礼ね」
「あ、戻った」
宍戸に指摘されて私は口元を手で覆う。隣で愉快そうにくつくつと笑っている彼を見たら、ふっと力が抜けたような気がした。
「今日は外出してたのか?」
「お客様に資料を届けるように言われて、行ってきたところ」
「こき使われてるな」
「これも仕事だもの。それに気分転換にもなるし、時々だったら悪くないと思ってるわよ」
少しは前のように会話できている――。
そのことに少しだけ安心する。
それきり何か言葉を交わすでもなく、私たちはそれぞれにエレベーターの到着を待った。
私は彼の横顔をちらりと見上げて、少し考える。
やっぱり階段を使おうか――。
このまま一緒にエレベーターに乗れば、恐らくこの間の話が蒸し返されそうな気がした。チケットがどうのこうのと問われ、追い詰められたような気分になりそうだ。想像したら気が重くなってきた。
「なに?」
うっかりもれた私のため息を耳にして、宍戸は怪訝な顔をする。
「やっぱり階段で行こうかなと」
「え、十階まで?別に止めやしないけどさ。もう来るよ、エレベーター」
柔らかい音がして、エレベーターの扉が開いた。
「乗らないのか?あ、もしかしてちょっとさぼろうとか思ってる?」
「そんなわけないでしょ」
宍戸に言い返しながら、残っている仕事が気になった。それは今日が締め切りだったが、手を付ける前に外出することになってしまった。だから少しでも早く戻って、取り掛かりたいところではある、が。
宍戸はエレベーターの扉を抑えて待ってくれている。他に乗る人はいないけれど、いつまでもぐずぐずしているわけにもいかない。
「やっぱり乗るわ」
私は諦めてエレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まって箱が上昇を始めると同時に、宍戸が口を開いた。
「で、あれからどうなった?」
「一応落ち着いた、かな」
「そうか。良かった。確かにもう元気そうだ」
「ご心配をおかけしました」
「どういたしまして」
「で?もう一つの方はどうなった?」
私はどきりとした。
やっぱり来た、と思った。けれど、その気持ちを顔に出さないように気をつけながら考える。十階まではそんなに時間はかからないはずだから、それまでの間だけなんとかシラを切り通せばいい。私は宍戸の質問の意味が分からないふりをした。
「何が?」
宍戸はふっと笑った。
「岡野が何を考えてるか、分かるんだけど」
「分かるって、何が?」
私はとにかく時間をやり過ごそうと、宍戸の言葉尻を捉えて返す。
彼は背中を壁に預けると、腕を組んで私を見た。
「あのチケット、無駄にしようとしてるだろ」
私は目を伏せた。
「別に……。無駄にしようだなんて思っていないけど」
「じゃあ、いつ補佐の気持ちを確かめるわけ?」
宍戸が私の方へ足を踏み出す。
動きが制限される箱の中では、距離の取りようがない。私はじりじりと後ろに下がり、ぶつかった所で壁にべったりと背中をつけた。持っていたバッグを胸元でギュッと抱きしめる。
「そこまで宍戸に干渉されたくない」
「干渉したくもなるさ。岡野がいつまでもはっきりさせないのが悪い」
宍戸はそう言いながら手を伸ばすと、私の頬にそっと指先で触れた。
私はびくっと身をすくませた。
「やっぱり俺じゃだめか」
「そのことはもう……。」
伝えたはず――。
そう言いたいのに声が喉に張り付いて言葉が出ない。
「この前は答えを急がないって言ったけど、お前の目が補佐の姿を追っているのを見ると苦しくなる」
宍戸の視線が私の動きを封じる。彼は指先を伸ばし、身動きを取れずにいる私の顔を仰向かせた。
その時、エレベーターが軽く振動した。宍戸の肩越しに見えた階数表示が示していたのは、私たちが降りようとしているフロアではなかった。誰かが乗ろうとしているのだ。
私は慌てて宍戸から離れ、角の方へと移動した。
宍戸は深々とため息をつき、扉の方に向き直る。
場の雰囲気に敏感な人だったら、私たちの間の気まずいような空気感や距離感に不自然さを感じるかもしれない。
どうか私たちを知らない人が乗ってきますようにと願いながら、私は扉が開くのを見守った。しかしそこにいたのは、今いちばんこの場を見られたくなかった人だった。