翌日――土曜日の10時前。
慣れない社会人としての1週間が慌ただしく過ぎ去って、やっと迎えた週末。
私の勤め先の会社では毎月第1、第3、あれば第5土曜日は出勤日、第2、第4土曜日は休日と定められている。
今週は幸いにして第2土曜日でお休みで。
私は久々の惰眠を貪って、つい今しがた目を覚ましたばかり。
昨夜は結局コンビニで小さなおにぎり弁当を買って食べただけ。
週末だしお酒とか飲んじゃおうかな?なんて浮き足立っていた気分は、帰り際の織田課長とのアレコレで、すっかり吹き飛んでしまっていた。
結局ギフトカードを渡された後も、当然のように織田課長に駐車場までついて来られて。
挙げ句、車に乗り込むところまでしっかりと確認されてしまった。
エンジンをかける手が震えたのは、教習所で初めて公道に出るぞ、って日以来だったかも知れない。
でも飲酒しなかったお陰かな。
スッキリとした目覚めと同時にお腹が鳴って、何か食べたいって思ったのは。
なのに。
忙しさにかまけて買い物をサボっていたら、冷蔵庫の中――ニンニクやワサビ、おろし生姜といったチューブ入りの薬味類と、マヨネーズとミネラルウォーターしか入ってないという悲惨な状態になっていた。
実家のお母さんに知られたら確実に連れ戻されちゃうやつ!
おまけに棚をあさってみたけれど、買い置きのカップ麺もなければ、パンも切らしているとか。
疲れの余り流しに置いたままにしてしまっていた、お弁当の空容器が目について虚しさがいや増す。
いくら疲れていた……上にハプニングがあったとは言え、コンビニに立ち寄ったときに今朝の食料にも気が回っていたら、こんなざわついた気持ちにならなくても済んだのに。
まさかどこかのマヨ好きみたいにマヨネーズボトルを咥えて「マヨちゅちゅ」なんて吸い飲みするわけにもいかないし……。
はぁ。
面倒だけど……出かける、かなぁ。
最寄りのコンビニまでは徒歩10分。
でもちょっと気合いを入れて車で15分走ったら、会社近くのあの喫茶店『Red Roof』がある。
確か昨夕、織田課長がそこのモーニングを勧めていらしたっけ。
ここは大学生の頃から住んでいる町なので、アパートもそのまま継続で住み続けていて、ほぼ生活圏が変わっていない。
「あっ」
そこで帰り際に着信があったことを思い出してスマホを取り出すと、案の定不動産屋さんで。
「やっぱり……」
先日から、何度か不動産屋さんからの着信が入っていたのを、忙しさにかまけて折り返さず仕舞いになっていた。
さすがに何度も繰り返される着信履歴を見る限り、何か用がありそうなのは明確で。
すぐに折り返したいところだけど、くだんの不動産屋さんは夜遅くまでやっている代わりに始業が遅め。
確か11時からの営業だった。
時計を見るとあと1時間近くある。
今日こそはご飯を食べて一息ついたら、ちゃんと忘れずに折り返そう。
そう思って、用心のためスマートフォンに「正午不動産屋さんに電話」とリマインダーをかけた。
これでよし。
***
そんなこんなで私、生活の拠点は変化なしなんだけれど。
在学中にせっせとバイトして貯めたお金をはたいて、自分への卒業祝いに買った、中古の真っ赤な軽自動のお陰で、学生の頃よりかなり行動範囲が広がったの。
貯金が一気に目減りして残高が4桁になってしまったのはさすがに不安だけれど、そこはほら、社会人になったんだし、もう一度頑張ってコツコツ貯めていけばきっと大丈夫。
とうめんの生活費は手元にあるお金で問題ないはずだし、予定外出費でもない限りお給料日まで難なく過ごせるはず。
お母さんなんかにはこの行き当たりばったりな性格を結構とがめられるんだけど、「迷惑かけてないんだからいいでしょ?」と言ったら黙り込むの。
割と衝動的に動いてしまう私だけれど、幸い親にお金のことで泣きついたことはこれまでに一度もない。
もちろん、これからだって絶対にしないつもり。
それをしちゃったら、親に負い目が出来てしまいそうで後々動きが取りづらくなりそうで嫌なんだもん。
無理して買った車のおかげで、学生時代には易々と行けなかったところへも、あちこち行けるようになって、結構幸せ。
だからね、この衝動買いを私、後悔はしてないの。
とはいえ、仕事が始まってからこっち、一度も遊びで乗る機会がなくて、それこそ通勤の足ぐらいにしか活用していないのが悲しいなって思う。
ふとみると、鞄の外ポケットから昨日織田課長に手渡されたギフトカードが封筒に入ったまま覗いていて。
「織田課長も勧めてくださったし、今日はドライブがてら、あのカフェのモーニングと洒落込もうかしら♪」
誰もいないのに、声に出してそう独り言を言ったら何だかその気になってくるから不思議。
確かモーニングは11時までって話だったから、急いで支度すれば間に合うはず。
思い立ったら吉日の私は、こういう時の決断も早いの。
久々に制服以外の服を着てお出かけ出来ると思ったら何だか嬉しくなって、私は彼氏と別れて以来初めて、クローゼットからスカートを引っ張り出した。
落ち着いたスモーキーピンクの、膝下5センチのワンピースに長袖の黒いジャケットを合わせる。
ワンピース自体が七分袖になっているから、もし暑くなったとしても二の腕の露出を気にせず気兼ねなく上を脱ぐことが出来る。
シフォン素材がさらさらと肌に心地いいのと、ハイウエストのデザインが、もしも食べすぎてお腹が膨らんでしまっても、そんなに目立たないし、何より楽ちんなのが嬉しい。
まだ風が少し冷たくて、薄手の羽織りものや長袖の服が重宝される。
そんな時節。
車に乗って移動しているとついつい忘れがちだけど、4月って気温的にはまだそんなに暖かくはないんだよね。
菜の花や桜が咲くと、景色は一気に春めいてしまうけれど、実際お花見のときって結構寒い。
特に会場が河原なんかだったら尚更。
アパート近くに借りた駐車場に向かう途中、風が一際強く吹き付けて、スカートがひらりと翻った。
慌てて布地を押さえてから、「風、冷たぁーいっ!」ってぼやいて、いそいそと車に乗り込んだ。
***
免許取り立ての頃はひとりで公道なんて無理!って思っていたのに、今では嘘みたいに運転しながら悠長に欠伸なんか出たりして。
ダメダメ。
こんな風に気持ちが緩んだ時が危ないのよ。
信号待ちの時、再度込み上げた生欠伸を噛み殺した直後、ペチペチと頬を叩いて気合を入れて。
カーオーディオを操作してお気に入りのアップテンポの曲をかける。
さして夜更かししたわけではないけれど、やっぱり慣れない環境っていうのは思いのほか体力を削るみたい。
それというのも、みんなみんな〝あの男〟が悪いんだぁ〜!
出掛けに少し迷って、とりあえずでハンドバッグに入れたまま持ってきてしまった例の白い封筒が、鞄の外ポケットからチラリと見えている。
助手席の封筒を見て、昨夕のあれこれを思い出した私は何とも言えない気持ちになった。
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