テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
#ハッピーエンド
#婚約破棄
なのに、彼の白磁のような肌も
夜の闇を凝縮したような黒髪も、一滴の雨にすら濡れていない。
雨粒は彼の体に触れる直前で、真珠のように美しく弾けて霧散していく。
男が細長い指先を空に向け、漂う雨粒をひらりと弾いた。
すると
弾かれた水滴が透き通った刃となって放たれ、私を襲っていた黒い霧を一瞬で貫いた。
霧は悲鳴を上げる間もなく、清らかな水へと姿を変え、石畳に吸い込まれて消えていく。
「あ……」
声も出ない私の前で、男はゆっくりとこちらを振り返った。
雨上がりの月光をそのまま瞳に宿したような、吸い込まれるほどに透き通った碧色の目。
「お前が、俺を呼んだのか?」
男はわずかに首を傾げた。
その仕草には、世間知らずな貴人のような気品と
どこか拠り所のない子供のような危うさが同居している。
「あ、あの……助けていただいて、ありがとうございます!あなたは……?」
「……俺、か。わからない。俺も、それを知りたいのだ。気がつけばこの雨の中にいた」
彼は自分の白い手のひらを見つめ、困ったように眉を下げた。
驚くべきことに、彼が歩いた場所だけ
埃っぽかった路地裏が打ち水をした後のように清められ、どこか瑞々しい香りが漂っている。
物の声を聞く私の耳が、このとき
初めて「人」から発せられる不思議な音を聞いた。
それは、深い水の底で鳴り響く、静かで、しかし力強い鼓動の音。
「……お腹、空いてませんか?」
自分でも驚くほど場違いな言葉が口から出た。
記憶がなく、雨に濡れることさえない孤独な男。
この人をこのまま闇の中に残していけないと、私の「お節介」が叫んでいた。
「飯……か。それは、どんな味がするのだ?」
不思議そうに尋ねる彼の手を、私は思わず取っていた。
その肌は、ひんやりと冷たく、けれど驚くほど心地よく私の手に馴染んだ。
「美味しいですよ。うちに来れば、お父さんの作った味噌汁もあります。……あ、私はお小夜っていいます!古道具屋の娘です」
「サヨ……か。良い響きだ。俺のことは……瑞樹と呼べ。それだけは、覚えている」
雨はいつの間にか上がり
雲の隙間から、彼と同じ碧色の月が顔を出していた。
「……瑞樹、さんですね」
その名を口に馴染ませるように呟くと、彼は少しだけ目を細めて頷いた。
雨上がりの湿った空気を切り裂くように、私たちは夜の神田を歩き出す。
私の足音は泥を跳ねる音がするのに
隣を歩く瑞樹さんの足音は、まるで静かな水面を叩くような、清らかな音しかしない。
◆◇◆◇
八百万堂の暖簾をくぐると、店内の古道具たちが一斉にざわついた。
「おや、お小夜が何かとんでもないものを連れてきたぞ」
「なんだあの御仁」
煤けた火鉢や、隅に置かれた古時計が勝手なことを口々に囁く。
瑞樹さんはそれらの「声」に気づいているのかいないのか、不思議そうに店の中を見渡していた。
「……お小夜?こんな夜更けにどこへ行ってたんだ。それに、その男は……」