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なのに、彼の白磁のような肌も
夜の闇を凝縮したような黒髪も、一滴の雨にすら濡れていない。
雨粒は彼の体に触れる直前で、真珠のように美しく弾けて霧散していく。
男が細長い指先を空に向け、漂う雨粒をひらりと弾いた。
すると
弾かれた水滴が透き通った刃となって放たれ、私を襲っていた黒い霧を一瞬で貫いた。
霧は悲鳴を上げる間もなく、清らかな水へと姿を変え、石畳に吸い込まれて消えていく。
「あ……」
声も出ない私の前で、男はゆっくりとこちらを振り返った。
雨上がりの月光をそのまま瞳に宿したような、吸い込まれるほどに透き通った碧色の目。
「お前が、俺を呼んだのか?」
男はわずかに首を傾げた。
その仕草には、世間知らずな貴人のような気品と
どこか拠り所のない子供のような危うさが同居している。
「あ、あの……助けていただいて、ありがとうございます!あなたは……?」
「……俺、か。わからない。俺も、それを知りたいのだ。気がつけばこの雨の中にいた」
彼は自分の白い手のひらを見つめ、困ったように眉を下げた。
驚くべきことに、彼が歩いた場所だけ
埃っぽかった路地裏が打ち水をした後のように清められ、どこか瑞々しい香りが漂っている。
物の声を聞く私の耳が、このとき
初めて「人」から発せられる不思議な音を聞いた。
それは、深い水の底で鳴り響く、静かで、しかし力強い鼓動の音。
「……お腹、空いてませんか?」
自分でも驚くほど場違いな言葉が口から出た。
記憶がなく、雨に濡れることさえない孤独な男。
この人をこのまま闇の中に残していけないと、私の「お節介」が叫んでいた。
「飯……か。それは、どんな味がするのだ?」
不思議そうに尋ねる彼の手を、私は思わず取っていた。
その肌は、ひんやりと冷たく、けれど驚くほど心地よく私の手に馴染んだ。
「美味しいですよ。うちに来れば、お父さんの作った味噌汁もあります。……あ、私はお小夜っていいます!古道具屋の娘です」
「サヨ……か。良い響きだ。俺のことは……瑞樹と呼べ。それだけは、覚えている」
雨はいつの間にか上がり
雲の隙間から、彼と同じ碧色の月が顔を出していた。
「……瑞樹、さんですね」
その名を口に馴染ませるように呟くと、彼は少しだけ目を細めて頷いた。
雨上がりの湿った空気を切り裂くように、私たちは夜の神田を歩き出す。
私の足音は泥を跳ねる音がするのに
隣を歩く瑞樹さんの足音は、まるで静かな水面を叩くような、清らかな音しかしない。
◆◇◆◇
八百万堂の暖簾をくぐると、店内の古道具たちが一斉にざわついた。
「おや、お小夜が何かとんでもないものを連れてきたぞ」
「なんだあの御仁」
煤けた火鉢や、隅に置かれた古時計が勝手なことを口々に囁く。
瑞樹さんはそれらの「声」に気づいているのかいないのか、不思議そうに店の中を見渡していた。
「……お小夜?こんな夜更けにどこへ行ってたんだ。それに、その男は……」