紬の挑戦︰
大会当日——照明がリンク全体を柔らかく照らし、観客のざわめきが徐々に静まる。
紬はリンクの中央で息を整えた。胸の中で脈打つ鼓動は、期待と緊張が入り混じったものだった。
音楽が流れる——緑黄色社会『メラ』。
彼女は優雅に滑り出す。序盤のジャンプは完璧だった。
トリプルフリップ(3F)——得意技の安定した着氷。勢いよく跳び、まるでバラの花びらが舞うような動き。
トリプルルッツ(3Lz)——フリップとの組み合わせで華やかに決める。技の精度が洗練されていた。
トリプルループ(3Lo)——流れるような振付の中にしっかりと溶け込んだ美しい跳躍。
凍は客席から黙ってその演技を見つめていた。
しかし——後半に入ると、異変が起きた。
紬は演技のピークを迎えようとしながら、アクセルのジャンプに挑む。
高く舞い上がり、鋭く回転する——成功した。
しかし、その衝撃が微妙なズレを生んだ。
次のトリプルルッツ——踏み切りのタイミングが狂った。
着氷の瞬間、バランスを崩し——転倒。
氷の冷たさが直接肌に伝わった。
一瞬、頭が真っ白になる。
「……ダメだ。」
観客が息をのむ中、紬はその場に倒れたまま動けなかった。
凍は客席から視線を動かさず、その様子を見守っていた。
しかし、次の瞬間——
紬はゆっくりと手をつき、氷の上に立ち上がった。
「まだ終わってない……!」
観客の中から静かな拍手が広がる。紬は再び滑り出し、最後のスピンへ——レイバックスピン、そしてビールマンスピン。
演技を締めくくるポーズを決めた瞬間、彼女は肩で息をする。
演技は終わった。しかし、心の中には悔しさが残っていた。
結果——7位。7級への昇格はならなかった。
紬は控室で静かに座りながら、じっと手を見つめる。
すると、玄関の方から聞き慣れた声が聞こえた。
「……まぁ、見れたな。」
紬は顔を上げた。そこには凍が立っていた。
彼の言葉はいつも通りだったが、その視線だけは、確かに彼女の演技を見て何かを感じていた——。
紬はそのまま静かに控え室へ戻った。大会は終わり、結果は7位。7級には届かなかった。
鏡の前に座り、深く息をつく。悔しさがじわじわと胸を締め付ける。
「もっと、跳べたはずなのに……。」
そんな思いが頭をよぎる。目を閉じて、演技のミスを思い返そうとしたその時——控え室の扉が開く音がした。
「……もう準備できた。」
振り向くと、そこには衣装をまとった凍の姿があった。
ノービスA男子7級大会に出場するため、彼はリンクへ向かう準備をしていた。
紬はじっと彼を見つめる。自分とは違う。凍は7級を持っていて、この舞台に立てる。そして、今から最高の演技を見せるのだ。
紬は少しだけ目を伏せ、静かに口を開いた。「……頑張って。」
凍は一瞬だけ紬を見たあと、淡々と「当然だ。」と返し、控え室を出ていく。
紬はその背中を見送りながら、小さく息を整えた。
悔しさはある。でも——今はただ、凍の演技を応援することに集中しよう。
痛みがあろうと︰
リンクのウォームアップが始まった。
選手たちは次々と氷上へ向かい、ジャンプの確認やスピンの調整を行っていた。リンクの上には多くのスケーターが滑り、それぞれが演技の最終調整をしていた。
その群れの中に、凍の姿もあった。
彼はいつも通り、冷静にエッジワークを確認しながら滑っていた。人混みの中でも淡々と動き、無駄な力を使わずに氷と一体化していく。
リンクのウォームアップが続く中、凍は鋭い痛みを感じた瞬間を思い返していた。
スケート靴のエッジが足にぶつかった衝撃——その一部始終は見ていたが、ぶつけた選手の顔までは確認できなかった。
痛みは強く、足を動かすたびにその感覚が蘇る。
凍はリンクの端で静かに立ち止まり、自分の足を確認した。動かすことはできる。だが、痛みが完全に消えることはない。
「……問題ない。」
そう自分に言い聞かせるように呟き、凍はリンクを見つめた。
大会に出る——その決心は揺るがない。
痛みがあろうと、今ここで立ち止まるわけにはいかない。
凍は静かにリンクへ戻り、ウォームアップを続けた。冷徹な視線の奥には、確かな意志が宿っていた。
凍の挑戦︰
リンクの中央に立つ凍。
会場の空気が張り詰める。彼の演技が始まる瞬間を、観客も息をのんで待っていた。
音楽が流れる——静寂の中に研ぎ澄まされた旋律。
彼のテーマは「カラス」。冷徹で知的なそのイメージを、技と共に氷の上に刻んでいく。
序盤——跳躍の強さ
まず、凍は迷いなく トリプルアクセル(3A) を跳ぶ。男子選手にとって最も重要な技——高く、鋭く、着氷は寸分の狂いもなく完璧だった。
続く トリプルルッツ(3Lz) は力強く、演技の流れに自然に溶け込む。さらに トリプルフリップ(3F) へと繋ぎ、ジャンプの組み合わせを安定させる。
中盤——振付との調和
トリプルループ(3Lo) を流れるように決める。彼の演技はただ技を決めるだけではなく、まるで空を滑るカラスのような滑らかさを持っていた。
そして、一番の見せ場——コンビネーションジャンプ(3Lz+3T)。技術点を最大化するための大技だったが、凍は迷いなく跳び、完璧に決める。
観客席では紬がじっと見守っていた。
「すごい……!」
彼女は凍の演技に目を奪われていた。
終盤——スピンの選択
凍は最後のスピンに入る——しかし、予定していた フライングシットスピン を フライングキャメルスピン に変更。
片足への負担を減らし、安定した回転へと持ち込む。
しかし、その変更が僅かな点数のズレを生んだ。
演技は完璧だった。だが、結果は——4位。
控え室の隅で凍の演技を見つめていた水江翼先生は、わずかに目を細めて言った。
「……片足の負担を下げたな。」
彼の動きだけで、それを見抜いていた。
さらに、スピンの構成変更にも驚いていた。「フライングキャメルスピンにするとはな……。」
凍はリンクから戻り、静かに息を整えていた。
目標には届かなかった。しかし、彼は冷静だった——自分の選択が何を生んだのか、すでに理解していた。
演技を終えた凍は、痛みを感じて静かにベンチへと座った。
足に違和感がある。単なる疲れではなく、確かに異常な痛みが残っていた。
それを見ていた木原仁コーチはすぐに近くの整骨医を呼び、診断を依頼した。
結果——「シンスプリント」
足の内側に現れるスポーツ障害。練習のしすぎで起こることが多いが、凍の場合は違った。
「ウォームアップで誰かにぶつけられたのが原因だ。」
整骨医の言葉に、凍は一瞬だけ目を伏せた。
「やっぱり、か。」
彼はすぐにそのことを話した。誰かが故意にエッジをぶつけたことを。ただ、顔は見ていない。
木原仁コーチは腕を組みながら深く息をつき、「診断結果は出たぞ」と静かに告げた。
しかし、凍はそれに対して軽く笑うように言った。
「わかってますよ。でも、軽症なんでしょ。」
挑発的なその言葉に、仁コーチは眉をひそめる。「分かってるじゃない。じゃあ分かっておきながら、なぜスケートをしたんだ?」
その問いに、凍は笑みを消した。そして、冷静な口調で言った。
「俺はスケートがしたい。でも、だからってスケートを無理にして重症のシンスプリントになるやつとは違う。俺はスケートがまたできるようになるくらいに足に負担をかけずにプログラムを構成した。」
その言葉に、水江翼先生は静かに頷いた。
「……そうか。確かに、それは正しい判断だな。」
元スケーターである彼は、凍の選択を理解していた。だからこそ、怒ることはない。
紬はそれを黙って見ていた——凍の冷静さ、その決断力。そして、スケートへの揺るぎない意思を。
診断が終わり、凍は静かに立ち上がった。
紬はその様子をじっと見ていた。
「……大丈夫?」
彼女の声は少し控えめだった。大会での演技、痛み、診断結果——彼の心の中には、いろいろなものが渦巻いているはずだった。
凍は軽く肩をすくめ、「問題ない。」と短く答えた。
紬はその言葉を聞いて、小さく息をついた。「無理はしないでね。」
凍は一瞬だけ紬を見つめる。彼女は本気で心配していた。
「……お前が気にすることじゃない。」
紬は少しむっとしながら、「そういうことじゃなくて、凍くんが無理しすぎるのが心配なの。」と言った。
凍は眉をひそめるが、それ以上何も言わなかった。
しばらくの沈黙。
紬はふっと微笑む。「でも、演技は本当にすごかったよ。」
凍は少しだけ目を細め、「……まぁ、悪くはなかったな。」と答えた。
そう言いながら、彼は控え室を出ていった。
紬はその背中を見ながら、静かに思った。
また次の大会——新しい挑戦が待っている。
彼女も、凍も、それぞれの道へ進んでいく——。
つづく
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