テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
ある朝。
みことは、ゆっくりと目を開けた。
見慣れた天井。
カーテン越しの光。
隣に感じる、誰かの体温。
(……あれ)
胸の奥に、わずかな違和感が走る。
隣で眠っている人の顔を、じっと見る。
――知っている。
――大切な人だ。
それだけは、はっきり分かるのに。
(……名前が、出てこない)
心臓が、どくんと強く鳴った。
(なんで……?)
焦れば焦るほど、頭の中は白くなる。
呼びかけたいのに、言葉が見つからない。
「……あ」
小さく、息だけが漏れる。
「……みこと?」
すちが、目を覚ました。
眠たそうに瞬きをして、こちらを見る。
「おはよう」
その声を聞いた瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。
(この声、好き)
(安心する)
でも、名前が分からない。
みことは、必死に笑顔を作った。
「……おはよ」
声が、少しだけ硬くなる。
すちは、違和感に気づいた。
「どうしたの?」
「……ううん、なんでもない」
嘘だった。
胸の奥では、警報みたいに不安が鳴り続けていた。
歯を磨きながら、鏡に映る自分を見つめる。
(思い出せ、思い出せ)
一緒に過ごした時間。
声。
笑顔。
触れた記憶。
いくら辿っても、名前だけが、ぽっかり抜け落ちている。
(……忘れた)
はっきりとした実感が、喉に詰まった。
手が、微かに震える。
朝食の準備をしているすちの背中を、みことはそっと見つめた。
包丁の音。
湯気の立つ味噌汁。
動き慣れた背中。
全部、安心する光景なのに。
「……ねぇ」
呼びかけた瞬間、言葉が止まる。
「……ねぇ、えっと……」
すちは、振り返った。
「ん?」
みことは、笑ってごまかした。
「……なんでもない」
すちは、何かを察したように、静かに近づいた。
「……俺の名前、言える?」
みことの心臓が、大きく跳ねた。
「……」
唇が、震える。
言えない。
沈黙が、答えだった。
すちは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
それから、優しく微笑んだ。
「すち、だよ」
静かな声で、ゆっくりと。
「俺の名前」
みことの胸に、ずん、と重たいものが落ちる。
「……すち……」
口に出した瞬間、涙が滲んだ。
「ごめん……」
「謝らないの」
すちは、みことの肩に手を置く。
「大丈夫だから」
「思い出せた…」
みことは、すちの服をぎゅっと掴む。
「……怖かった」
小さな声で、正直に呟く。
「急に、真っ白になって……」
すちは、そっと抱き寄せた。
「怖いよね」
「でも、ちゃんと戻ってきたね」
それでも。
その日一日、みことの心は落ち着かなかった。
(また、忘れるかもしれない)
(次は、戻ってこないかもしれない)
不安が、影のようにつきまとう。
それでも、みことは、何度もすちを見る。
触れる。
声を聞く。
ぬくもりを確かめる。
そして、何度も言う。
「……すち、大好き」
その言葉だけは、不思議と、迷わず口から出た。
ベッドに入って、電気を消したあと。
みことは、小さく呟いた。
「……名前、忘れてもさ」
「……好きって気持ち、残るんだね」
すちは、少し驚いたようにこちらを見る。
「……うん」
「残るよ」
みことは、安心したように、すちの腕に顔をうずめた。
「……よかった」
一方、すちの胸の奥では、静かに現実が重く沈んでいた。
(始まった)
名前を忘れるということは、
記憶の“核”が、少しずつ削れていくということだ。
(それでも)
腕の中のみことを、強く抱きしめる。
(何度でも、教える)
(何度でも、恋をさせる)
コメント
1件
わぁぁ、、、ついに名前まで、、、!それでも大切な人だって言うことは覚えてて良かったです、! 何回忘れても🍵くんが思い出させてくれることを祈りたいですね、、、!