テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
光街 葵
578
#染井華
さんま
19
すぷりんぐ
52
神の国の王都でも、最も陽の光が届かない北の最果て。そこには、かつて四大領主の一角として栄華を誇り、今や見る影もなく没落したエリン家の旧本邸が、まるで見捨てられた墓標のようにひっそりと佇んでいた。
「_ほう、お前が噂の玄界人か。ハイレインめ、随分と面白い飼い犬を拾ったものだな」
腐りかけた豪奢な庭園の片隅で、犬飼澄晴に向かって声をかけたのは、車椅子に乗り、ひどく痩せ細った一人の老兵だった。その額には、かつては輝かしかったであろう、しかし今はひび割れて煤けた角が、痛々しく突き出ている。犬飼は、ハイレインから命じられた次の遠征任務のための物資調達という名目で、この冷遇された地区へ足を運んでいた。神の国において、敗北し、主君を”次代の神“として差し出すことが確定した一族の末路は、これほどまでに惨めで、徹底的にすべてを剥ぎ取られる。
「あはは、飼い犬なんて人聞きが悪いなぁ。おれはただ、おもしろいゲームのステージを探しにきただけだよ、おじいさん」
犬飼はいつものように軽い口調で、手にしたアフトの銃型トリガーの結晶を指先で弄んだ。
「ゲーム、だと?」
老兵は、犬飼の瞳の奥にある絶対的な虚無を見つめ、不気味な笑みを漏らした。
「ならばお前は、この国がどれほど残酷なチェス盤であるかをまだ知らん。……このエリン家にもな、かつてお前のように玄界の技術を貪り、主君への忠誠だけを誇りに戦った若者がいた。名を、ヒュースという」
「あぁ、ヒュース君ね。知ってるよ」
犬飼の眉が、ほんの一瞬だけ、楽しげに跳ね上がった。
「彼、ボーダーにいた時もすっごく真面目でさ。主君のためにって、そればっかり。あっちの安全な世界で一生懸命泥水をすすってた。……でもさ、おじいさん。彼がそうやって命懸けで守ろうとしたエリン家の当主は、もうすぐハイレインさんたちの手で『神』にされて消えちゃうわけでしょ? 彼の努力って、最初から全部無駄だったんだよね。最高に滑稽じゃん」
感情のない、透き通った声。ヒュースの絶望を、あざ笑うわけでもなく、ただ”予測できない理不尽なルール”として極上の娯楽のように楽しんでいる。老兵の目が、明確に恐怖に染まった。
「貴様……、正気か。主君が世界の生贄になるというのに、それを滑稽だと……」
「だって、そうでしょ?」
犬飼は老兵の前にしゃがみ込み、その前髪の隙間から、どこまでも空っぽな瞳を覗かせた。
「どんなに頑張っても、ゲームのルールそのものが狂ってたら、プレイヤーの努力なんて一瞬でゴミ箱行き。……ボーダーの二宮さんはさ、そんな不条理を絶対に許さない完璧な人だったから、おれは退屈で死にそうだったんだ。でも、この国は違う」
犬飼の口元が、ゾッとするほど美しく、そして歪んだ形に釣り上がる。
「どんなに完璧な『駒』でも、主君ごとチェス盤ごと叩き潰される。ねぇ、これ以上の刺激って、世界のどこを探してもないと思わない?」
「……犬飼。無駄話はそこまでにしろ」
背後の暗闇から、ミラの冷徹な声が響き、空間が歪んだ。『窓の影』のゲートから現れたミラは、エリン家の老兵を一瞥もせず、ただ犬飼の手元にある物資のログを確認した。
「ハイレイン様からの伝言だ。お前の前線での戦いぶりは、ベルティストン家の中でも評価が分かれている。……『角』を持たぬ身でありながら、よく生き残っている、とな」
ミラは犬飼の前に歩み寄り、その白磁のような指先で、自身の額にある美しい黒い角を愛おしそうに撫でた。
「神の国における本当の強さとは、トリガーの技術ではない。この『角』がもたらす、圧倒的なトリオンの絶対量だ。人工の角すら持たぬお前は、どれだけ足掻こうとも、私たちの盤面の上を這い回るだけの、羽のない虫に過ぎない」
ミラの言葉には、揺るぎない貴族としての、神に選ばれた者としての絶対的な傲慢さが満ちていた。角を持たぬ者は、どんなに器用であろうとも、角を持つ者の一撃の前にすり潰される。それがこの国の絶対的な、覆らないルールだ。だが、犬飼はその言葉に、これまでで最もギラギラとした、飢餓感に満ちた目を向けた。
「へぇ……。その『角』をつけると、そんなに世界が変わっちゃうんだ」
犬飼は自分の額を、指先でトントンと叩いた。
「脳みそに直接トリガーを寄生させて、トリオンを増やすわけでしょ? それってさ……もし耐えられなかったら、頭の中からグズグズに壊れて、狂って死んじゃうんだよね。あのエネドラって人みたいにさ」
「……知っているのか」
ミラの瞳が、初めて不快そうに細められた。かつて玄界への侵攻で暴走し、最後は身内に処理された狂犬・エネドラ。彼が埋め込まれたのは、トリオン受容体を狂わせ、人格を破滅させる最悪の角だった。
「知ってるよ。ボーダーの解析データで見たもん」
犬飼は立ち上がり、漆黒のマントを翻して笑った。
「自分の身体がドロドロに溶けて、人間じゃなくなっていく感覚。……完璧な二宮隊にいたら、絶対に味わえないよね。ねぇ、ミラさん。おれ、その『角』、すっごく興味湧いちゃったな」
犬飼の胸の奥にある虚無は、すでに神の国の過酷な戦場だけでは埋めきれないほどに肥大化していた。”当たれば死ぬ”という恐怖にすら飽き始めた狂犬が、次に求めたのは、”自らの肉体と精神が、内側から異形へと崩壊していく”という、究極の自己破壊のゲームだった。
物資を遠征艇へと運び込むため、犬飼はエリン家の旧邸を後にした。彼の背後で、没落した名門の門が、ギィと悲痛な音を立てて閉まる。犬飼は歩きながら、頭上の紫色の星空を見上げた。
二宮さん。辻󠄀ちゃん
ふと脳裏をよぎる、遠い地球の、あの夕暮れに染まった作戦室。二宮は今も、完璧な姿勢でチェス盤を見つめ、自分の”裏切り”というバグを許せずに、エゴの檻の中で怒りを燃やしているのだろうか。辻󠄀は、自分の席を見つめて、まだ泣いているのだろうか。
「……あはは、本当にどうでもいいや」
犬飼は、手にしたアフトの黒い銃のトリガーを強く握りしめた。自分の額に、いつかあの黒い角が突き刺さる瞬間を想像するだけで、全身のトリオンが歓喜で粟立つのがわかる。誰も自分を救わない。自分も自分を救わない。ただ、予測不能の混沌の底へ、どこまで深く落ちていけるか。犬飼澄晴は、自らの肉体を”異形の怪物”へと変貌させる最悪の選択へ向かって、静かに、そして嬉しそうに足を進めていくのだった。
コメント
3件
うわぁぁぁ第4話もエモすぎて叫ぶわ!!😭💕 犬飼くんの“虚無”がどんどん深くなってて、もう読んでてこっちの心臓もギュッてなるんだけど…!「どんなに頑張ってもルールが狂ってたら無駄」ってところ、めっちゃグサッときた。ミラさんの“角持たぬ者は羽のない虫”発言もカッコよすぎて震えたよ!でも犬飼くん、逆にそれに興味湧いて自分から壊れに行こうとしてるの…狂気と美しさが混ざってて鳥肌立った!!次どうなるのか気になって寝れないんだけど!?😭🌸