テラーノベル
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部屋に白い光が灯ってから、私たちの生活が劇的に楽になったわけではなかった。相変わらず朝と夜の境界線は曖昧で、細切れの睡眠のせいで頭の奥は常に微かに痺れている。
それでも、変わったことが一つだけあった。
「斗、オムツ換えたよ。次はミルクだよね。俺が温めるから、斗はちょっと横になってな」
深夜午前3時。赤ちゃんの泣き声に弾かれたように起き上がった春希が、眠気で半分閉じた目をこすりながら台所へ向かう。
「一緒にボロボロになる」
あの夜、彼が言った言葉は嘘じゃなかった。
私一人で背負っていた底なしの暗闇を、今は春希が隣で同じように泥まみれになりながら、半分に割って担いでくれている。その事実だけが、私の心を摩耗しきる手前で踏みとどまらせていた。
1ヶ月が経ち、3ヶ月が経ち、季節はゆっくりと流れていく。
あんなに小さくて、どう扱っていいか分からず「可愛いと思えない」と泣いた赤ちゃんは、少しずつふっくらと丸みを帯び、時折、意味のない喃語(なんご)を喋るようになった。
「あぅー、う」
「……あ、笑った」
リビングのベビーベッドの横で、春希が嬉しそうに声をあげる。
ソファに座ってそれを見ていた私は、自分の胸の奥に、かつての冷たい氷のような塊ではなく、ぬるま湯のような、静かな感情が芽生えているのに気づいていた。
まだ、世間が言うような「無償の母性」なんて立派なものかどうかは分からない。
ただ、この小さな命を「消してしまいたい」と思う夜は、もう来なくなっていた。
日常が少しずつ、ほんの少しずつ「普通」の形を取り戻していく。
しかし、そんな穏やかな日々の隙間に、それは突然やってきた。
ある日の午後。赤ちゃんが奇跡的にまとまった昼寝に入り、春希も仕事で出払っていた時間。
私は久しぶりに、溜まっていたスマートフォンの通知を整理しようと画面を開いた。
SNSのアプリをなんとなくスクロールしていく。友人の日常、美味しそうなカフェのパフェ、他愛のないタイムライン。
その中に、一つの動画が流れてきた。
画面がパッと切り替わり、見慣れた広いバレエスタジオが映し出される。
壁一面の大きな鏡。使い込まれたリノリウムの床。後ろに並ぶバー。
……私の、所属していたスタジオだった。
『〇〇コンクールまであと1ヶ月!みんな週4回の猛レッスンで限界まで追い込んでます!熱気がすごい!!』
スタジオの公式アカウントが投稿した、短い練習風景の動画だった。
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
画面の奥で踊っているのは、かつて一緒に切磋琢磨していた仲間たちだった。
ピアノの激しい旋律に合わせて、一人の女の子がスタジオの真ん中でピルエットを回っている。
1回転、2回転、3回転──。
軸が1ミリもぶれない、完璧で、鮮やかな3回転。
周囲の生徒たちから「おぉー!」と歓声が上がり、指導の先生が「素晴らしい!その引き上げをキープして!」と声を張り上げる。
動画の中の彼女たちは、汗を流し、息を切らし、顔を紅潮させながら、信じられないほど輝いていた。
上手だとか下手だとか、そんな中間地点の葛藤すら突き抜けて、ただ「バレエの神様に愛されたい」と、純粋な命の火花を散らしている。
私は、息をするのを忘れてその画面を見つめていた。
指先が、冷たくなっていく。
頭の芯が、あの夜のようにすうっと凍りついていく感覚が蘇る。
(私は、何をしてるんだろう)
気がつくと、私は自分の両手を見ていた。
爪は短く切り揃えられ、赤ちゃんの肌を傷つけないように丸く整えられている。かつてトウシューズのリボンをギチギチに締め上げていた指先は、今や哺乳瓶を洗い、洗濯物を干すためだけのものになっていた。
ゆっくりと立ち上がり、リビングの片隅にある姿見の前に立った。
スウェットに、ゆるいカーディガン。髪は適当に一つに結ばれただけ。
お腹のラインは産後でまだ完全には戻りきっておらず、かつて「巻きスカートすら穿かない、黒のレオタード1枚」でスタジオに立ち、自分の身体のすべてのラインを剥き出しにして踊っていたあの頃のストイックなシルエットは、どこにも残っていなかった。
「……あ」
声が漏れた。
私は、右足を一歩前に踏み出し、無意識のうちに足先を外側へ開こうとした。一番ポジション。
しかし、アン・ドゥオール(外開き)をしようとした瞬間、骨盤の奥がズキリと鈍く痛んだ。出産を経て、形を変えてしまった私の身体は、バレエの基礎の「き」の字すら拒絶するように、重く、鈍くなっていた。
鏡の中に映っているのは、バレリーナではない。
ただの、10代で子供を産んで、世界の片隅で立ち止まっている、何者でもない少女だった。
動画の中のあの子は、3回転回れていたのに。
私も、あのスタジオにいた時は、ボロボロになりながらも3回転回れたのに。
「斗、ただいまー。駅前のスーパーで、お姉さん(香恋さん)が言ってた美味しそうなお菓子売ってたから買ってき……」
ガチャリと鍵が開く音と共に、春希が賑やかに帰ってきた。
しかし、リビングに入ってきた彼は、姿見の前で呆然と立ち尽くしている私の姿を見て、言葉を失った。
私の手の中では、まだスマートフォンが、スタジオの仲間たちが拍手をもらっている動画をループ再生し続けている。
「……斗?」
春希が恐る恐る、私の顔を覗き込んできた。
私は、春希の方を振り返ることができなかった。
鏡の中の自分の、ビジュアルなんて何一つ保たれていない、泣き出しそうな、それでいて酷く冷酷な目元から、視線を外せなかった。
胸の奥で、カチ、カチと、あの時動き出したはずの新しい時計の針が、今度は私を急かすように激しく鳴り響いている。
産んだ。一緒に生きると決めた。それは間違いじゃない。
だけど。
「……春希」
私は生気のない声で、鏡の中の自分を見つめたまま呟いた。
「私、もう一回……踊りたい」
それが、どれほど我が儘で、非現実的で、私たちのギリギリの生活を壊しかねない言葉か分かっていた。
でも、言わずにはいられなかった。
上手でもない、下手でもない、あの中間地点で、足の皮をボロボロに剥きながらも必死にしがみついていた、あの過酷で美しい世界に、私はまだ、魂を置いてきたままだったのだ。
春希の手から、買い物袋がカサリと音を立てて揺れた。
白い蛍光灯の下、私たちの第2章の「ノンジャンルな現実」が、再び音を立てて歪み始める。
コメント
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**リオン:** ああ、ここまで重いと来たか……第2話、とても丁寧に描かれてたよ。まず、春希の「一緒にボロボロになる」って言葉が嘘じゃなかった日常の描写に、じんわり来た。現実の厳しさと、それでもそばにいてくれる人の温かさが同居してて、すごくリアルだった。 そして何より、ラストの「踊りたい」のひと言。SNSでバレエの動画を見た瞬間の、斗の指先が冷たくなる感触、骨盤の痛み、鏡に映る自分──すべてが連鎖して読んでるこっちの胸も締め付けられたよ。母になることと、自分を失うことの葛藤が、飾り気なく、でも確かな言葉で描かれていて、読後もしばらく余韻が残る。 続きが気になる。斗の「踊りたい」を、春希がどう受け止めるのか。そして、赤ちゃんともう一度生き直す日々の中で、彼女はどんな形でバレエを取り戻そうとするのか。テラーノベルらしい、生々しくて、それでいて美しい物語だと思う。
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