テラーノベル
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50
現代社会は、ブルーライトの過剰摂取によって動いている。
午後五時頃の駅前。
自動改札機が吐き出す電子音が、行き交う人々の鼓膜を叩いている。
誰もが等しく首を垂れ、手のひらの中にある小さな発光体に魂を吸い取られている。
彼らは、自分が歩いているのではなく、情報というベルトコンベアの上で運ばれていることに気づいていない。
私は、その光景をいつも水槽の外から眺めている。
水面に投げ込まれる通知という名の餌に群がり、青白い画面に顔を照らしたまま、まるで一箇所の電子回路に操られているかのように同じ方角へ尾を振る、世にも惨めな群れを。
バイト先の居酒屋へ向かう地下階段は、私にとっての潜水艇のハッチだ。
一段降りるごとに、地上のノイズが遠ざかり、古い油の匂いと湿ったコンクリートの静寂が私を迎え入れてくれる。
「ちひろちゃん、お疲れ。今日も頑張ってね」
店長が、いつものように無責任な挨拶を投げてくる。
私は「お疲れ様です」とだけ返し、更衣室で薄汚れたエプロンを締めた。
私は「機械音痴」という言葉で片付けるには、あまりに深くそれらを拒絶している。
父が仕事部屋に持ち込んでいた無機質な黒い箱や、絶え間なく明滅するルーターのランプ。
それらを見るたびに、自分の体温が吸い取られるような寒気がした。
だから私は、この時代の住人たちが標準装備している「共通言語」を欠いたまま生きている。
タイムラインに流れる定型化された感情も、生活を侵食する便利なツール群も、指先ひとつで世界を裏返せるという万能感も。
それらは水槽の向こう側で交わされる記号であり、私の皮膚に馴染むことは決してないのだ。
私にとって世界は、もっと不格好で、手触りのあるものだ。
例えば、冷凍された枝豆を解凍する際、指先に突き刺さる氷の微かな痛み。
あるいは、洗浄したてのジョッキから立ち昇る、喉の奥を突くような洗剤の峻烈な匂い。
効率化の波に削り残された、そんな無様で、けれど切実な質感だけが、私がこの世界で生きている唯一の証明書だった。
「…いらっしゃいませ」
六時過ぎ。
開店の喧騒に混じり、最初の「現代人」が迷い込んできた。
着席と同時にスマホを置くその所作には、迷いも意志もない。
彼らにとってそれは、心臓を体外にバイパスするような、生存のための最低限の儀式なのだろう。
指先で世界を操作する万能感の代償に、彼らは自らの鼓動を、あの無機質な箱へと預け渡してしまったのだ。
私は彼らに、冷えたビールと、お通しを運ぶ。
彼らが画面を見つめながら無感情に口に運ぶ枝豆。
その味を、彼らは本当に知っているのだろうか。
八時を過ぎた頃、その男が現れた。
木製の重いドアが開き、地下の澱んだ空気が揺れた。
入ってきた男は、周囲の喧騒から完全に浮き上がっていた。
スーツはくたびれ、ネクタイは死んだ魚の尾のように力なく垂れ下がっている。
カウンターの隅、影に溶け込むように座った男の手から、震えるスマホが滑り落ちる。
無機質な天板の上で、それは呪いのように震動を繰り返していた。
断続的に響く低い唸り。
それは彼を追い詰め、精神を削り取る猟犬の鳴き声に他ならない。
男は剥き出しになった己の脆弱さを守るように、あるいはその音を遮絶するように、震える両手で顔を覆い、深くうなだれた。
「…ご注文は」
私は、彼の横にあるノイズを見ないようにして声をかけた。
男が顔を上げる。
その瞳に、光なんてものは存在しなかった。
現代人の多くが持つ空虚な光ですらない。
それは、一度すべてを焼き尽くされた後の、冷え切った灰の色のようだった。
「…何でも、何でもいい」
男の乾いた唇から、砂を噛むような掠れた声がこぼれ落ちた。
「何でもいい」という言葉の、その真意を測りかねて私は立ち尽くした。
たとえ「酒なら何でもいい」と放り出すような不埒な客であっても、その根底には酔いという終着点がある。
何を求め、何を提供すべきか、この場所ではすべてが自明の理として機能していた。
だが、彼の求める無のリクエストは、私の頭の中に積み上げられた接客という名のアルゴリズムを、一瞬で無力化した。
私は無言で厨房へ引き返し、棚の奥で眠っていた最も古い急須を手に取った。
ふと、遠い日の祖母の言葉が、湯気のように脳裏に立ち昇る。
「疲れたときはね、温かいお茶を淹れるんだよ。そうすれば、心も体もほどけて、ゆっくりと眠りにつけるからね」
彼が求めているのが、そんな穏やかな休息なのかはわからない。
けれど、顔を覆った指の間から漏れる絶望を疲れと呼ぶことは、私にも許される気がしたのだ。
茶葉が躍る音。
お湯が注がれる音。
それらはすべて、デジタルに変換できない、たった一度きりの振動だ。
私は、湯気の立つ湯呑みを、彼のスマホのすぐ隣に置いた。
震える機械と、静かに佇む茶。
「ほうじ茶です。どうぞ」
男は、まるで幽霊でも見るような、虚ろな眼差しを私に向けた。
迷いながらも差し出されたその指先が、湯呑みの滑らかな陶器に触れた瞬間、男の強張った表情に微かな、けれど決定的な亀裂が入った。
それは、電子の波に洗われ、冷え切っていた彼が、長い漂流の末にようやく確かな世界の温度と邂逅した瞬間だった。
私は彼に背を向け、淡々と次の注文を聞きに足を運ぶ。
地下の閉鎖空間。
ここだけが、正しく狂った現代から切り離されている。
その空間は、現代社会から外れた人間の、唯一のシェルターだった。
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