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つーぴ
67
相棒からほんの少しの恋愛へ
ツアーのリハーサルの日。
広いホールのステージには、本番前特有のざわつきが満ちていた。照明のチェックで白い光が何度も床を走り、音響テストの低い振動が足元から伝わってくる。スタッフの声、機材を動かす音、誰かの確認する声が重なって、まだ始まっていないのに、もうライブの気配だけが先に立ち上がっていた。
ステージ横では、コハルが男性スタッフと話していた。少し身を乗り出すようにして、照明のタイミングについて説明を聞いている。表情は明るく、反応は大きく、話しかけられた相手まで自然に笑顔にしてしまう、いつものコハルだった。
スタッフ
「さっきの照明のタイミング、コハルさんが前に出る瞬間に少しだけ強めに入るようにしてて、客席から見ると動きが一気に広がって見えると思うんだよね」
コハル
「え、ほんとですか?
すごい!
それめっちゃ嬉しいです、あそこ自分でももっと大きく見せたいなって思ってたところだったから、照明でそう見えるなら本番めちゃくちゃ意識します」
コハルは笑った。
声だけでなく、肩も、目元も、指先も、全部が一緒に明るくなるような笑い方だった。相手の言葉をまっすぐ受け取って、嬉しいと感じた分だけそのまま表に出す。ナオコは少し離れた位置で、その横顔を見ていた。
ナオコ
(コハ)
自然と視線が向いていた。
特に理由はない。呼ばれたわけでもないし、何か確認しなければいけないわけでもない。ただ、気づくと見ている。それはもう、癖に近かった。
コハルが元気かどうか。表情が曇っていないか。無理して笑っていないか。ナオコの目は、ステージ上でも楽屋でも移動中でも、どこかでいつもコハルを探していた。
ナオコ
(今日も元気)
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ緩んだ。
ライブのリハーサルは体力を使う。細かい修正も多いし、音や照明に合わせて何度も同じ動きを繰り返す。
けれどコハルは、疲れていても場の温度を下げない。自分が明るくいれば周りも動きやすくなると、どこかで分かっているような人だった。
ナオコ
(ああ)
(こういうところ)
(コハルらしい)
誰とでもすぐに打ち解ける。初対面でも、スタッフでも、年上でも、緊張している相手でも、コハルは空気の入口を見つけるのがうまい。
強引ではないのに、気づけば相手の表情が少し柔らかくなっている。
ナオコはその姿を見るのが好きだった。コハルが笑うと、ステージ横の薄暗い空気まで少し明るくなる気がした。
眩しいというより、あたたかい。近くにいる人の肩の力を自然に抜いてしまう、そういう光だった。
ナオコ
(ほんと)
(太陽みたい)
ナオコは少しだけ微笑んだ。
けれど、その笑みが完全に落ちる前に、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
痛みというほど強くはない。苦しいというほどはっきりしていない。
ただ、さっきまで穏やかだった場所に、細い糸が引っかかったような感覚だった。
ナオコ
(……あれ)
視線を外そうとした。
でも、外れなかった。
リハーサルの進行表を見るふりをしても、スタッフの声に耳を向けようとしても、意識の端がまたコハルへ戻ってしまう。コハルはまだ楽しそうに話していた。
スタッフ
「コハルさんほんと明るいね、話してるとこっちまで元気になる」
コハル
「えー、普通ですよ。
でもそう言ってもらえるの嬉しいです。
本番でちゃんと客席まで届くように、もっと大きく動きますね」
また笑う。
その笑顔を見た瞬間、ナオコの胸がほんの少しだけ締まった。
相手が誰かに特別なことをしたわけじゃない。コハルもいつも通りで、スタッフも仕事の話をしているだけだった。
なのに、嫌だと思った。ほんの少しだけ。
誰にも見えないくらい小さく、でも自分では無視できないくらい確かに。
ナオコ
(……なんで)
(別に)
(普通の会話なのに)
ナオコは静かに息を吐いた。
頭では分かっていた。
コハルは誰とでも話すし、それがコハルの良さでもある。場を明るくして、相手を安心させて、必要なことをちゃんと聞き出す。
仕事としても、性格としても、ずっとそうだった。
それを嫌だと思う理由なんてないはずだった。
むしろ、誇らしいと思っていたはずだった。コハルがいれば現場が明るくなる、コハルがいれば空気が動く。
ナオコはそれを何度も見てきた。
ナオコ
(待って…私。何考えてるんだろう)
胸の奥の違和感は、消えなかった。
コハルが笑う。スタッフも笑う。
その距離はただの仕事の距離なのに、ナオコの目には少しだけ近く見えた。見たくないわけじゃない。けれど見続けていると、自分の中の知らない場所に触れてしまいそうで怖かった。
ナオコ
(なんで)
(少し)
(嫌なんだろう)
その感情に気づいた瞬間、ナオコは自分で驚いた。
心臓が一拍遅れたような感覚があった。
リハーサルホールの音が遠くなり、照明の白い光だけが妙にはっきり見える。自分の中にそんな感情があると思っていなかったから、どう扱えばいいのか分からなかった。
ナオコ
(え)
(私)
昨日の夜を思い出す。
ホテルの部屋。ライブ後の静かな空気。
ベッドで眠るコハルが、寝言でナオコの名前を呼んだこと。モモカの前で少しだけ照れた自分。
あのときも、ただ相棒だからだと思っていた。
コハルがナオコを信頼している。
それが嬉しかった。それだけで十分だと思っていた。
隣にいられるなら、支えられるなら、必要とされているなら、それでいいと思っていた。
ナオコ
(そうだよ)
(相棒)
相棒。
その言葉は、ナオコにとって大事な言葉だった。
恋愛より軽いわけでも、友情より浅いわけでもない。仕事も、ステージも、不安も、疲れも、言葉にしきれないものまで預け合える関係。
ナオコはそういう意味で、コハルの相棒でいられることが嬉しかった。
でも今、その言葉の輪郭が少し揺れていた。
ナオコ
(もし)
(コハルが)
(誰かと)
(付き合ったら)
そこまで考えて、思考が止まった。
胸が重くなる。思ってはいけないところまで踏み込んでしまった気がした。
相棒なら、祝福できるはずだった。コハルが幸せなら、それでいいと言えるはずだった。
でも、すぐには言えなかった。
ナオコ
(……あ)
ナオコは目を伏せた。
喉の奥が静かに詰まる。
苦しいほどではない。けれど、認めたくない感情がそこで形になっていくのが分かった。
コハルが誰かを好きになること。
誰かの隣で、あの笑顔を向けること。
自分ではない誰かに、寝言で名前を呼ぶほど安心すること。
それを想像した瞬間、ナオコの中で何かがはっきりした。
ナオコ
(これ)
(好き…なのかな…)
自分でも、少し信じられなかった。
相棒でいいと思っていた。
近くにいられればいいと思っていた。支えられるなら、それだけで十分だと本気で思っていた。
でも、十分じゃなかったのかもしれない。
ナオコ
(相棒でいいって)
(思ってたのに)
その時、後ろから声がした。
モモカ
「ナオコ」
ナオコは振り向いた。
声をかけられただけなのに、少しだけ心の中を見られたような気がした。
モモカはいつものように軽い表情をしていたけれど、その目はちゃんとナオコを見ていた。
冗談を言う前の、観察する目だった。
ナオコ
「モモちゃん」
モモカ
「どうしたの?
なんか、さっきから珍しくぼーっとしてる」
ナオコは一瞬だけ返事に迷った。
何でもない、と言えば終わる。
実際、表面上は何も起きていない。コハルがスタッフと話しているだけ。
ナオコが少し変な気持ちになっただけ。誰かに説明できるほど、形になっている感情でもなかった。
ナオコ
「別に。
リハの流れ、見てただけ」
モモカはすぐには返さなかった。
ナオコの顔を見る。
目元の揺れ、少し浅い呼吸、さっきよりも硬い口元。その全部を見て、モモカは心の中で小さく頷いた。
モモカ
(あれ)
(ナオコ)
(珍しい顔してる)
ナオコは普段、とても落ち着いている。
静かで、考えていて、感情が表に出るまでに時間がかかる。怒っていても声を荒げないし、嬉しくても大げさにはしない。
だからこそ、ほんの少しの変化が分かりやすかった。
今のナオコは、目が揺れていた。
本人は隠しているつもりでも、視線の逃げ方がいつもと違う。何かを見て、何かに気づいて、でもまだ言葉にできずにいる顔だった。
モモカはナオコの視線を追った。
そこにいたのは、コハルだった。
モモカ
(あ)
理解するのに、時間はかからなかった。
コハルが男性スタッフと笑っている。
普通の会話。普通の距離。けれど、ナオコの表情は普通ではなかった。
モモカは少しだけ口角を上げそうになって、すぐに抑えた。
今はからかう場面ではない。
これは、ナオコの中で初めて輪郭を持ち始めた感情だった。軽く触ったら、きっとすぐ隠れてしまう。
その瞬間、横からジスが来た。
ジス
「モモカ」
モモカ
「ジス」
ジスも同じ方向を見る。
そして、ナオコを見る。
コハルを見る。
もう一度、ナオコの横顔を見る。
ジスの表情は静かだったけれど、目の奥だけが少し柔らかくなった。
ジス
(ナオ)
(なるほど)
全部つながった。
昨日の夜の事、モモカから聞いた事。
コハルが寝言でナオコを呼んだこと。ナオコがそれに照れたこと。
相棒という言葉に収めようとしていた距離。
今、コハルが別の誰かに笑いかける姿を見て、ナオコの中で生まれた小さな揺れ。
ジスは急かさない。
言葉にする前の気持ちは、とても壊れやすいと知っているから。ただ、ナオコの隣に立って、同じ空気を少しだけ共有した。
モモカ
「ジス。
ナオコ、ちょっと複雑そう」
ジス
「うん。
ナオコ、気づいたね」
モモカは少しだけ目を動かした。
モモカ
「え?」
ジスは静かに言った。
ジス
「自分の気持ち。
まだ言葉にはしてないけど、たぶん今、自分で少しびっくりしてる」
モモカは黙った。
その説明はしっくりきた。
ナオコは感情を雑に扱わない。だからこそ、自分の中に生まれた小さな嫉妬にも驚いているのだと思った。
相棒として大事にしてきたコハルへの気持ちが、ほんの少し違う色を帯び始めている。
モモカ
(あー……)
(やっぱりかぁ。)
その時。
コハルが振り向いた。
ナオコを見つけた瞬間、顔がぱっと明るくなる。
さっきスタッフに向けていた笑顔とも少し違う、見つけた、という安心が混ざった笑顔だった。
コハル
「ナオコ!
聞いて!
さっきの照明、私が前に出るタイミングで強く入るんだって。
本番で絶対気持ちいいやつだから、あとで一緒に確認してほしい」
ナオコの表情が柔らかくなる。
さっきまで胸の奥に引っかかっていたものが、コハルの声だけで少しほどける。
コハルが自分のところへ来る。
自分に聞いてほしいと言う。
その事実だけで、ナオコの心は驚くほど簡単に落ち着いた。
ナオコ
「うん。
あとで見る。
コハの出るタイミング、ちゃんと見たい」
コハルは嬉しそうに頷いた。
その顔を見て、ナオコはまた胸の奥が熱くなるのを感じた。
さっきの苦しさとは違う。もっと柔らかくて、静かで、でも逃げ場のない感情だった。
自分はこの笑顔を近くで見ていたいのだと思った。
相棒として、だけではなく。
その言葉が心の中に浮かんで、ナオコはほんの少しだけ目を伏せた。
コハル
「ナオコ、どうしたの?
ちょっと顔、変じゃない?」
ナオコは小さく笑う。
ナオコ
「変じゃない。
コハルが元気だなと思ってただけ」
コハルは首をかしげてから、少し照れたように笑った。
コハル
「なにそれ。
でも、元気だよ。
本番近いし、楽しいし、ナオコもいるし」
その一言で、ナオコの胸がまた静かに揺れた。
ナオコもいるし。
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥に深く入ってくる。
コハルにとっては何気ない言葉でも、今のナオコには少し眩しすぎた。
ナオコ
(ずるい)
(そんな普通に)
(言わないで)
でも、顔には出さない。
出したら、何かが変わってしまいそうだった。
まだ自分でも分かりきっていない感情を、コハルに見せる勇気はなかった。だからナオコはいつも通りの声で返す。
ナオコ
「じゃあ、次の通しも頑張ろう」
コハル
「うん。
ナオコもちゃんと見ててね」
ナオコは頷いた。
見てるよ、と言いそうになって、少しだけ飲み込む。
そんなこと、言わなくてもずっと見ている。コハルが気づいていなくても、ナオコの視線はいつだってコハルを探している。
モモカは少し離れたところから、その二人を見ていた。
コハルが来た瞬間、ナオコの表情が変わった。ほんのわずかに、でも確かに。
硬くなっていた目元が緩み、呼吸が戻り、声の温度が上がった。
モモカにはそれが面白くて、少しだけ胸が温かかった。
モモカ
(ナオコ)
(今)
(恋してる顔)
ジスも静かに見ていた。
コハルはまだ何も気づいていない。
ナオコもまだ、完全には認めきれていない。
けれど、関係はもう少しずつ動き始めている。相棒という言葉の中に収まりきらないものが、二人の間に静かに生まれていた。
ジス
「相棒。
…一歩進んだね」
モモカはジスを見る。
ジスは穏やかに笑っていた。からかうでもなく、急かすでもなく、ただ見守る目だった。
モモカ
「これ、ナオコが自覚するまで長そう。笑」
ジス
「長いかも。笑
でも、ナオコはちゃんと大事にすると思う。
気づいたら、簡単には雑にしない子だから」
モモカは小さく頷いた。
ナオコはきっと、すぐに何かを言うタイプではない。
気持ちに名前をつける前に、何度も確認して、考えて、怖くなって、それでも最後にはちゃんと向き合う。
そういう人だ。
そしてコハルは、そんなナオコの静けさの中で安心して笑う。
ステージに再びスタッフの声が響いた。
次の通しの準備が始まる。
照明が変わり、音が鳴り、メンバーたちがそれぞれの位置へ向かっていく。コハルは軽く跳ねるようにステージへ戻り、ナオコはその少し後ろを歩いた。
二人の距離は、昨日までと同じに見える。
でも、ナオコの中だけは少し違っていた。
ナオコ
(相棒)
その言葉をもう一度思い浮かべる。
大事な言葉。嘘じゃない言葉。
けれど、その奥に別の感情が静かに重なり始めている。ナオコはまだ、それを誰にも言えない。
でも、コハルが振り返って笑った瞬間、胸の奥がまた小さく鳴った。
コハル
「ナオコ!
ここ、あとで一緒に確認ね」
ナオコは少しだけ笑った。
ナオコ
「うん。
ちゃんと見る。
コハルのことは、私が一番見てるから」
言ってから、ナオコは自分で少しだけ驚いた。
コハルも一瞬だけ目を丸くする。けれどすぐに、いつもの明るい笑顔で笑った。
コハル
「頼もしい。
じゃあ、ちゃんと見てて」
ナオコは頷く。
その横顔を、モモカとジスが見ている。
二人とも何も言わない。ただ、同じことを思っていた。
太陽みたいに笑うコハル。
その光を静かに受け止めるナオコ。
相棒だった関係は、まだ名前を変えてはいない。
けれど、ほんの少しだけ。
恋愛へ向かって、足元の向きが変わり始めていた。
コメント
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わあ…第4話、読ませていただきました。 リハーサル中の何気ないシーンなのに、ナオコの内側でじわじわと湧き上がる感情がすごく繊細に描かれていて、胸がぎゅっとなりました。相棒でいいと思っていたのに、コハルが他の誰かと笑っているのを見て「嫌だ」と感じる瞬間——あの感覚、すごくリアルで、読んでいて自分も一緒にドキドキしてしまいました。 モモカとジスがナオコの変化に気づくところも、チームの空気感が伝わってきて、続きがすごく気になります。ナオコがこの気持ちとどう向き合っていくのか、じっくり見守りたいです🌷