テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「……はぁ、今日もこれか」
若井はネクタイを乱暴に緩め、
真っ暗な自室に倒れ込んだ。時刻は深夜2時。
デスクには飲みかけの冷めたコーヒーと、
明日までに片付けなければならない
資料の山が積まれている。
新卒で入った広告代理店での生活は、思い描いていた華やかさとは程遠かった。
上司の叱責、終わらない修正依頼、そして自分自身の才能への限界。
「俺、何やってんだろ……」
天井を見上げると、視界がじんわりと霞む。
その時だった。
「——……♪」
薄い壁の向こう側から、
微かな、けれど驚くほど澄んだ歌声が聞こえてきた。
ハミングのような、
けれど言葉にならない
感情が詰まったような不思議な旋律。
(まただ……。
隣の人、こんな時間に何歌ってんだろ)
一ヶ月前にこのアパートに越してきてから、若井の深夜の楽しみ……
いや、唯一の救いは、この「お隣さん」の歌声だった。
姿も名前も知らない。
けれど、その声は若井の耳に心地よく響き、ささくれ立った神経を優しく撫でるように
落ち着かせてくれる。
若井は誘われるようにベランダへ出た。
夜の冷たい風が頬を叩く。隣の部屋のベランダには、淡いオレンジ色の明かりが漏れていた。
「……いい声だな」
思わず独り言が漏れる。
歌声がふっと止まった。
「……え、誰かいるの?」
壁の向こうから、今度は「喋る声」が聞こえてきた。
歌声と同じくらい、艶があって通る声。
若井は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「あ、すみません。……怪しいもんじゃないです、
隣の302号室の若井って言います」
「……302号室。あぁ、最近越してきた人?」
ベランダの仕切り板越しに、気配が近づいてくる。
「僕の歌、うるさかった?」
「いえ! 全然! ……むしろ、その……毎日、癒やされてて。
……今日も仕事でボロボロだったんですけど、今の歌聴いて、ちょっと元気出たっていうか」
若井が必死に弁解するようにまくしたてると、
壁の向こうで「くすっ」と小さな笑い声がした。
「そっか。……君、面白いね。
僕の歌で元気が出るなんて」
仕切り板の隙間から、
細い指先がひょいっと顔を出した。
「僕は元貴。……よろしくね、お隣さん」
月明かりの下、
若井は初めて「隣の主」の名前を知った。
まだ顔も見えない二人の、ベランダ越しのじれったい恋が、静かに幕を開けた瞬間だった。
コメント
6件
隣人がもっきーは羨ましすぎる✨️✨️ あと、表現が綺麗すぎるて、!!!!