テラーノベル
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ベランダ越しに言葉を交わした翌日。
若井の頭の中は、仕事の資料よりも
「元貴」という名とその艶やかな声でいっぱいだった。
(どんな顔してるんだろう。
……声からして、シュッとした涼しい感じかな)
そんな淡い期待を抱きながら、
若井は珍しく定時直後にオフィスを飛び出した。
けれど、慣れない「早帰り」のせいで
変に緊張してしまい、夕飯を買うために立ち寄った駅前のコンビニで、ぼんやりとレジの列に並んでいた。
カゴの中には、お惣菜の唐揚げと、
ちょっと高めの缶ビール。
「……お会計、780円になります」
レジ店員の声に顔を上げようとした、その時。
背後の列から、
聞き覚えのある「あの声」が聞こえた。
「あ、すみません。これ、温めてもらえますか?」
心臓がドクンと跳ねる。
若井は反射的に振り返った。
そこには、オーバーサイズの黒いパーカーを羽織り、少し眠たげな、
けれど吸い込まれるほど綺麗な瞳をした青年が立っていた。
「……っ、……あ」
若井の口が、情けなく開く。
青年。
元貴も、若井の視線に気づいて目を丸くした。
そして、若井の手にあるコンビニ袋と、若井のスーツ姿を交互に見て、ふっと悪戯っぽく微笑んだ。
「……もしかして302号室の、若井くん?」
「え、……な、なんで……」
「声でわかるよ。
昨日、あんなに一生懸命
『癒やされた』って言ってくれたじゃん」
元貴は、クスクスと笑いながら自分の会計を済ませると、呆然と立ち尽くす若井の横を通り過ぎ、入り口で足を止めた。
「外、雨降りそうだよ。早く帰ろ?」
夕暮れの街を、二人は少し距離を置いて歩き出した。
スーツ姿の若井と、ラフな格好で鼻歌を歌いながら歩く元貴。
「……昨日、仕事ボロボロだって言ってたけど。
今日は早かったんだね」
「あ、……うん。……
なんか、今日は早く帰りたくて」
「ふーん。僕の歌、聴くために?」
直球すぎる問いかけに、
若井は顔が熱くなるのを感じた。
「……まあ、……否定はしないけど」
「正直だね。……若井くんって、面白い」
アパートの階段を上る足音が、シンクロする。
自分たちの部屋の前まで来ると、元貴はドアノブに手をかけ、首をかしげて若井を見た。
「あのさ、……ビール、一本ちょうだい。
お礼に、今日はリクエスト受け付けてあげる」
それは、壁一枚隔てただけの隣人関係が、音を立てて崩れ、混ざり合おうとする合図だった。
コメント
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いいことが起きるのかわるいことが起きるのか…