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4月の、よく晴れた第2月曜日。 今日は私の、社会人デビューの日です。
営業部門、設計管理部門、土木部門、建築部門、管工事部門、左官部門、経理部門などといった、いくつかの部門を有した、ここらではそこそこ有名な中規模の建設会社に採用されて、初めての出勤日。
私は先日支給されたばかりの真新しい紺色の制服に身を包んで、ソワソワと落ち着かない気持ちで公衆の面前にいます。
小さな会社だからかな。
入社式なんて仰々しいものはなくて、私を含めた新卒の新入社員4名、朝礼で100人あまりの先輩従業員らの前に立たされて……。
今まさに社長直々にざっくばらんな感じで紹介されているところ。
大企業の入社式みたいな派手さはないけれど、なまじっかアットホームな分、社長や会長など、いわゆるお偉いさんとの距離がイメージしていたよりずっと近い。
そんな人たちから頑張ってね、と直に声をかけられたりするぐらいだから、朝礼でも先輩従業員の皆さんたちとの距離なんかはそれ以上に近くて。
別にあがり症なわけではないけれど、壇上にたったの数名。注目されていると思うからか、やたらと恥ずかしかった。
私は始終視線を足元や手元や社長の背中へと泳がせて、何とかその場をやり過ごそうと必死で。ほぼ前は見ていなかった。
「――以上の4名が、今日から我が社の新たな仲間です。4人ともこの春大学を卒業したばかり。社会に出たてで右も左も分からないでしょうから、皆さんしっかり仕事や社会のルールを教えてあげてください」
そこまでを社員みんなに語りかけた社長が、最後に私たちの方を振り返って、「君たちが1日も早く我が社の戦力になってくれることを期待しています」と締めくくった。
その言葉に、他の3人と一緒に「はい」と答えながらも、脳内では早く壇上から降ろして〜とか思っていたのは内緒です。
***
同期の3人はさすが建設業と言うべきか、私以外みんな男性だったのは大誤算でした。
入社試験や面接の時には女の子、数名いたはずなんだけどな。
そこで私は、「男性職場は若い女の子には不人気だからね」と、かつて運送業を営んでいた祖父が言っていたのをふと思い出した。
やはり周りが男性ばかりだと、若い女性は気後れしてしまうらしくて、面接に来てくれても採用の連絡をすると辞退されることが多いんだとか。
よしんば入社してくれても、すぐに辞めてしまったり。
それでだろうな。私が幼い頃、年輩のパートさんが決まるまでの結構な期間、母が経理事務に借り出されていたの。
私は母について祖父の会社の事務所をチョロチョロしていたからか、年輩の男性や、自分より年上の男性なら結構慣れっこで。逆に同級生や年下が少し苦手。
勝手に線引きして申し訳ないけれど、同期の男の子たちにも、私単独では気安く話しかけられそうにはないなって溜め息を落とす。
いくら男職場でも、同期にひとりくらい女の子がいてくれてもよかったのに。
女の子がいてくれたなら、同年代の男の子とだってその子と一緒に話しかけられる。誰かと一緒なら平気。
思っても仕方ないことだけど〝たられば〟を妄想するくらいは自由だよね?
結局のところ私、彼氏にフラれたショックで同年代の男の子に、いつもよりちょっぴりかさ増しで苦手意識を持ってしまっているだけなんだと思う。
慣れればなんとかなるとは思うけど、そのための時間は必要。
とはいえ――。
実は朝礼前、ステージ下に集められた際。
ひとり同期に馴染めなくてカチンコチンだった私に、3人のうちの1人が「よろしくね」って声をかけてくれたの。
私、その時うまく返せなくて、自己紹介すら出来なかった。
思い返してみたら、さすがにあれはなかったよね?って思う。
元カレと同期の男の子たちはイコールじゃないのに。
社会人として、もっとしっかりしなきゃ。
考えてみれば、人として付き合うことに同性も異性も関係ないわけで。
もっと言えば恋仲にさえならなければ、私の身体的な問題は障壁にはならないんだもの。
いつか飲み会とかあったら、お酒の力を少し借りて、今日の非礼を謝れたらいいな。
いつになるやら……なことをふと思ってから、それにつられるように先日のバーでの一件を思い出した私は、縁起でもない!と、ふるふると首を振ってその記憶を頭の中から追放した。
好みの男性にあんな話聞かれちゃうとか……今考えても恥ずかしくて顔が熱くなってしまう。
あの人はどの辺りから私の話を聞いていたんだろう。
将来誰かと結婚したとして、営みの時は下しか脱がない宣言をして笑われたことは確かだから、そこは確実に聞かれていると思う。
それはそれとして、じゃあ何で私がそう考えるに至ったか、の理由はどうかな。
そこ、聞かれちゃったのかな。
まさか私が自分の胸にコンプレックスを抱えていて、それが理由で彼氏にフラれたってところまでバレてはいないと思いたい。
あ。でも……。
あの人、元カレのこと「そんなくだらない男」とか言ってなかった?
ってことはきっと――。
***
世の中に、貧乳で悩む女性は数多いるだろうけれど、私みたいに陥没乳首で悩んでいる同士はどのぐらいの割合いるのかしら。
元カレは触れても頑なに先端が顔を出さなかった私の胸に嫌気がさしたんだろうな。
――何でこんなに触ってんのに勃たねぇの?
そう苛立ったように元カレがつぶやいたことがあったのをふと思い出す。
あの時はよく分からなくて「ごめんなさい」って謝ったけど、同時に〝自分ではどうしようもないのに仕方ないじゃない〟とも思ったっけ。
まさかそれでフラれるとは思っていなかったけど、今思えば、彼氏のあの口ぶりからすると、普通は触れたら顔を出すってことなのかしら、と思い至る。
彼は触れれば出てくるならいいやって思って、私と付き合ってくれてたってことかな……。
だとしたらご期待に添えなくて申し訳ありませんでしたっ!って思う。
けど、そもそもいじられても全然気持ちよくなかったんだもん。
気持ちいいと顔を出すのだと仮定したら……胸に触れられることを気持ちいいと思えない〝不感症の私〟は、絶対にそこが〝勃つ〟ことなんてない思う。
先端に触れられると気持ちいいよ?ってほたるが話してくれたことあるけれど、そもそもそこが出てこない私はそれ、感じようがないじゃない。
うー。触れない場所で感じるって、無理だよね……?
***
顔を覆って「あーん」と小さくベソをかいたところで、
「――聞いてますか? 柴田さん」
と、急に社長から名指しで声を掛けられた。
私はビクッとして顔から手を離すと、慌てて背筋を伸ばす。
し、しまった。
私、まだ社長室にいたんだった!
壇上から降りて気が抜けたせいか、はたまた緊張状態が長く続いた反動か、いつの間にか連想ゲームのようによそ事を考えてしまっていた。
「早く学生気分から抜けてもらわないと困りますよ?」
苦笑混じりに社長からちくりと釘を刺されて、私は「申し訳ありません」と項垂れる。
もぉ、初日から最悪……。
「で、聞いてなかったみたいだからもう1度言うけれど、柴田さんは3階の管工事課の総務部ね。そこの課長に話は通してあるから、あとはその人の指示に従って?」
こんな腑抜けた新入社員にもチャンスを与えてくれる。
私、やっぱりアットホームな会社を選んでよかった!って思った。
性格からして大きなところは向かない気がして……。小さいところばかり面接を受けたのは、私が割とこういう雰囲気が好きだから。
今は営業自体辞めてしまったけれど、祖父のやっていた運送会社の経理事務を手伝っていた母にくっ付いて、幼い頃からそこの事務所に出入りしていた私は、こういう男職場にも割と抵抗がない。
若い女の子が辞めてしまう原因になるという、いわゆる粗暴な物言いや、セクハラめいた下卑た発言で揶揄われたとしても、おじさん達だと軽く往なせる。
同年代の人や、年下の子に同じことを言われたら、恐らくフリーズしてしまうのだけれど。
***
先程社長に言われた通り、3階の管工事課の門戸を叩いた私に、
「ここの課長でキミの教育係の織田宗親です。よろしくね」
にこやかに微笑んできたのは……あろうことかバーで私を笑ってきた、めちゃくちゃ好みのあの人だった。
もう2度と会うことはないと思っていたからこそ、かっこいい男性に陥没乳首を知られているかも?と思っても「まぁいいや」と開き直っていられたのに。
まさかまさか……直属の教育係になるなんてっ!
「き、聞いてない……!」
思わず心の声が途中から声になって、外に溢れ出してしまった。
私が就職した会社はいわゆる中小企業。
全従業員数だって100人ちょっとの中規模な会社だ。
でも、だからと言って、あんなに沢山人がいるのに! どうしてよりによって織田課長が私の担当なんでしょう!?
「初っ端から上司の言うことを聞いていないと宣言するとか、キミはいい性格をしていますね」
にこやかな笑顔のままそんな風に言われて、心は絶対笑ってないですよね!?とドギマギする。
「あ、ち、違っ。お、織田課長のお話はちゃんとお聞きしてますっ。た、ただ……」
そこで先日のバーでの一件を言おうとして、いや待てよ?と思い直す。
だってほら、彼、すごく普通に接してくれてるしっ。
もしかして……あの日、バーで飲んだくれて彼氏にふられた愚痴を盛大にこぼしていた私と、いま目の前にいる新入社員が、同一人物だとは気付いていないのかも知れない。
バーの照明、ムーディーで薄暗かったし!
うん。下手なことを言って墓穴を掘るのはやめておこう。
ここは素知らぬ顔でスマートに、にこやかに。
「初めましてっ! 今日からこちらでお世話になります、柴田春凪と申します。不束者ですが、よろしくお願いします」
努めて「初めまして」のところを強調して頭を下げたら、クスッと笑われて。
ほんの少し距離を詰められてから、
「初めまして? キミはあの夜のことをもう忘れてしまったの?」
小さくつぶやくようにそう告げられた。
織田課長が私の方へ近付いていらした瞬間、マリン系の香りがふわりと漂って、ドキッとする。
この香り、バーでも。
あの夜のことを想起させられる芳香に、嫌な汗が背中を伝う。
「柴田さん。あの日は僕の忠告を守ってすぐに解散しましたか?」
追い討ちをかけるように、ふんわりした人畜無害そうな笑顔に乗せてそう問われた私は、ビクッと身体を震わせた。
ひぇっ!
お、覚えていらっしゃるみたいですっ。
「あ、の……いつから」
私があの夜の痛い子だと気付いていらしたんですか?
そう問いかけようとして、ふとあの晩彼に言われた意味深な言葉を思い出す。
――本当に関係ないといいね。
そう。確かこの人は「あなたには関係ない」と彼を睨みつけた私に、今みたいに穏やかな笑みを浮かべてそう言い放ったのだ。
あの時は何のことだかさっぱり意味が分からなかったけれど、あれって……まるで最初から私のこと――。
「黙っていてごめんね? 実はあのバーで柴田さんを見かけた時には既に……貴女は僕の部下になる子だなって気付いていました。上から回ってきた履歴書で、キミの顔は見知っていましたから」
現実を思い知らせる声は、耳をゾクゾク震わせる、最上級の低音イケボ。
その声が紡ぎ出される唇――もとい〝ご尊顔〟――は、言うまでもなく好みのどストライクで!
「本年度の新入社員唯一の紅一点がうちの課に配属されると社長から聞かされて。実は僕もどんな子がくるのかな?と興味津々だったんです。まさかその貴女に。行きつけのバーで入社日より前にお会いできるとは思いませんでしたけれど」
その彼が、流れるように静かな声音で私を追い詰めていく。
「そのおかげで愛らしい部下の思わぬ〝秘密〟も知ることができましたし、僕としてはとても有意義な邂逅になりました」
そこまで言われて、私は我慢出来なくなってうつむいた。
秘密って……秘密って……やっぱり陥没乳首だよね!?
私にとっては、ある意味「下しか脱がない宣言」よりも忘れて欲しい事柄なのに、絶対そこ、忘れてくれなさそうじゃないっ!?
むしろマーカーとかで目立つようにして、付箋まで貼り付けて、記憶の引き出しから即座に取り出せるようにしてありそうな気さえするのですがっ?
――神様ぁー、こんなのって酷すぎますっ!