テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
れの
24,414
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
金曜日――。
例によって織田課長に思いっ切りこき使われて、ヘトヘトのヘロヘロ。
そう言えば今日はランチもまともに食べられなかったなぁ。
唯一口にしたのは、朝、出勤途中で会社近くにある赤い屋根がトレードマークのカフェで買った、カフェラテ一杯だけだ。
全国チェーンまではいかないまでも、県内に幾つかの支店を出す、美味しい珈琲と軽食が売りのお店。
大通りに面していて、駐車場も広くて立ち寄りやすいからかな。いつ行ってもお客さんで賑わっている。
「お腹すいた……」
定時の17時を過ぎること約3時間。
いつもなら18時までには帰れるところ、今日は週末だからかな?
20時前になってやっと解放されて。
ようやく帰宅の途につける!と思った私は、帰りに何か買って家で食べよう、とお腹の虫をなだめに掛かる。
土日はお休みだし、少しアルコールを飲むのも悪くないかも?と腑抜けた状態であれこれ考えを巡らせながらエレベーターホールへ向かった。
たった3階分の距離を階段で降りるのも億劫になってしまうぐらいの倦怠感に、我ながら驚く。
大学を卒業して、社会に出てほんの数日。
厳密に言うとたったの5日。
なのに心身の疲弊具合はぶっ続けで10日以上砂漠を走り切ったぐらいの惨憺たる有様で。
初めてやってくる週末に気が抜けてしまったのかしら。
後ちょっと――。せめてアパートに帰り着くまではしっかり気を張っていないと、ふらりと倒れてしまいそう。
手にしたカバンの中で、携帯がブーブーとバイブ音を立てているけれど、それを取り出すのも億劫で。
ごめんなさい、あとでちゃんと折り返します。
「つかれた……。なんか食べたい……」
やって来た箱内に誰もいなかったのをいいことに、溜め息混じりにそう吐き出して、壁に背中を預ける。
と、ドアが閉まり切る直前にヌッ!と隙間に大きな手が差し入れられて。
「きゅぁっ」
完全にだらけモードで無防備になっていたところへの思わぬ奇襲に、カエルがつぶれたみたいな、はたまたRPGなどの回復魔法みたいな、恥ずかしい悲鳴が漏れた。
「開ボタンくらい押してくれてもいいのに……」
心臓バクバクでそんなゆとりなんてなかったけれど、言われてみればその通り。
挟まれた手に、安全装置が働いて再度口を開けた扉から箱内に入ってくるなり、手の主から非難がましい声で溜め息をつかれて、ほんの少し申し訳ない気持ちになる。
「す、すみません」
謝りはしたものの、もしも私、操作パネルに手を伸ばしていたら、間違いなく「閉」の方を連打しまくっていた自信があります!
だって手が差し込まれた瞬間、何かホラーチックで本ッ当にっ! 怖かったんですもの!
なんて思ったけれど、口に出すわけにはいかない。
何故なら乗り込んできた相手が、一応直属の上司だったから。
歯向かうなんて、滅相もございません。
***
「お、お疲れ様です……。織田課長も今日はもう帰られるんですか?」
一緒になるなんて珍しいなって思ってから、「あ、今日は私がいつもより遅いんだった」と思い至る。
「もう20時ですもんね。いくら織田課長でも帰られますよね」
あはは、と乾いた声で笑いながらそう言ったら、「いや、まだ帰るつもりはなかったんだけどね、キミに渡すものがあるのを思い出して追いかけてきました」
とか。
確かに、見ればいつも通りの作業服姿に、何の荷物も持っておられない。
さすがに車で行き来しているにしても財布のひとつぐらいは手荷物であるだろうし、何より私、織田課長が黒いリュックサックを背負って通勤しているの、見かけたことある。
となると、今しがた彼が口走った私を追いかけてきた云々は、紛れもなく真実なんだと思う。
「な、な、な、何の御用でしょうっ!?」
そう実感した途端、思わず声が吃ってしまった。
「ま、さかっ、持ち帰りのお仕事とかじゃ……ない、です、よね?」
ないとは言い切れない怖さが、この人にはある。
見た目と美声以外の〝良いところ〟を、神様はこの人から全て剥奪してしまったんじゃないかと思うぐらいのにこやかな暴君ぶりを、私はこの数日でみっちり身体に叩き込まれている。
今日だって、笑顔で「これもお願いしますね。あとはこれも」と次々に仕事の山を積み上げられたことを思い出して、半ば条件反射でビクビクしてしまう。
けれど、私の心配をよそに、織田課長は「僕もそこまで鬼じゃないつもりなんですけどね」とクスッと笑って。
いやいや十分鬼ですよ!?と思う反面、不覚にもその笑顔にキュン、としてしまう。
ダメダメ、春凪! この人の笑顔に騙されたら、ろくな目に遭わないっ。
そのことはこの5日間で嫌と言うほど思い知ったはずなのに。
どうしても好みどストライクの顔というのは、私の判断能力をちょいちょい狂わせて困ります。
今日も結局くだんのキラースマイルのせいで、「かしこまりました。お任せくださいっ!」とか無意識で嬉しげに返してしまって。結果、この時間まで残業する羽目になったのだ。
きっとこの人は「すみません、難しいです」と言えば、無理に仕事を押し付けたりはしないと思う。
思うのに、織田課長に失望されたくなくて、自ら望んで押しつけられにいっている気さえするのは、気のせいじゃないと思う。
私、自覚はないけれど、ひょっとするとM気質なのかしら。
「じゃ、じゃあ、何……です、か?」
気持ちを切り替えるようにそう言ったところで、エレベーターが1階に着いて、一瞬だけふわっとした浮遊感がしてから扉が開く。
まだ話が終わっていないけど、降りてもいいのかな?
そう思って迷っていたら「降りないんですか?」と促された。
「お、降りますっ」
ソワソワしながら箱を降りると、織田課長も当然のように降りていらして。
私、あとはポツポツと街灯に照らされた道を、会社が用意してくれている駐車場まで5分ぐらい歩くだけ。
まだ帰るつもりはないと言った織田課長なのに、一体どこまでついていらっしゃる気なのかしら?
帰宅予定じゃないのなら、離れた駐車場まで来ていただくのは申し訳ない。
植え込みの横を歩き始めた私の背後を、当然のようについて来る織田課長に、私はどうにも落ち着かない心持ちになる。
さっきの用事がまだ明かされていないし、緊張の余りそれが切り出されるのを待たずに歩き始めてしまったのがいけなかったのかな。