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ら む ね _ @多忙
1,152
くもねこ☁
312
#鬱
Ravi
36
その夜、 アゼリアは 久しぶりに、 ただの「リア」に戻っていた。
神殿の裏庭。
幼い頃から、 何度も何度も歩いた場所。
古い木々。
苔むした石畳。
小さな噴水。
そして、 夜空に浮かぶ 大きな月。
「……覚えているか?」
ラフィエルが ふと尋ねた。
「何をですか?」
「君が初めてここに来た日のことだよ」
「……」
アゼリアは 少し考えた。
「……覚えていません」
「そうか」
ラフィエルは 少し笑った。
「私は覚えている」
「……本当ですか?」
「ああ」
「どんな子供だったんですか?」
アゼリアが 興味深そうに尋ねる。
すると、 ラフィエルは 少し困った顔をした。
「……非常に警戒心が強かった」
「……」
「それから」
「……」
「よく噛みついた」
「…………」
アゼリアが 固まった。
「……私が?」
「そうだ」
「誰に?」
「私に」
「……」
「何度も」
「……」
アゼリアは、 信じられないという顔をした。
「……嘘でしょう」
「本当だよ」
ラフィエルは 楽しそうに笑った。
「君は私が近づくたびに逃げた」
「……」
「抱き上げようとすると暴れた」
「……」
「薬を飲ませようとすると噛んだ」
「……」
「それはもう、見事なものだった」
「……師匠」
「何だ?」
「……もう、その話はやめましょう」
ラフィエルは 声を上げて笑った。
その笑い声を聞いて、 アゼリアも つられて笑った。
「……」
こんなふうに笑ったのは いつ以来だろう。
戦場では 笑うことなんて、 ほとんどない。
寮でも セリスと話す時くらいだ。
けれど、 ここでは 違った。
アゼリアは 何も考えずに笑えた。
剣も。
天界も。
悪魔も。
正義も。
全部 忘れて。
ただ、 昔のように 「リア」でいられた。
「……師匠」
「ん?」
「私が初めて剣を持った時のこと、覚えていますか?」
「もちろん」
「……あの時」
アゼリアは 少しだけ笑う。
「私、剣が重くて持てなかったんですよね」
「そうだったな」
「それなのに、師匠は」
「うん」
「『そのうち持てるようになる』って」
「言ったな」
「……全然、慰めになってなかったです」
「そうか?」
「はい」
二人の間に、 また 笑い声が落ちた。
風が吹く。
木々がざわめく。
葉の隙間から、 月明かりが差し込んだ。
ラフィエルの深い緑色の瞳に、 一瞬 光が宿る。
それは 怒りでも、 慈悲でもなかった。
ただ、 静かに すべてを受け止める光。
アゼリアは その瞳を見て、 ふと 昔のことを思い出した。
自分が 初めて剣を持った日。
ラフィエルが、 自分の手を取って 剣の握り方を教えてくれた。
『正義は、感情に溺れないことだ』
あの言葉、 ずっと 自分の中に残っている。
だから アゼリアは 剣を振ってきた。
迷わなかった。
迷わないようにしてきた。
けれど、 今は 違う。
「……」
アゼリアは ゆっくりと 息を吐いた。
「師匠」
「……何だ」
「……私」
ラフィエルは 黙っている。
急かさない。
ただ 待っている。
「……悪魔を」
アゼリアは 言葉を探した。
「ただ倒すことが」
「……」
「本当に正義なのか」
風が 止まった。
アゼリアは 自分の手を見る。
剣だこだらけの手。
血を知っている手。
「……分からなくなりました」
初めて 口にした。
言葉にしてしまえば、 思っていたよりも、 ずっと 簡単だった。
「私は……」
「……」
「悪魔は敵だと教えられてきました」
ラフィエルは 静かに聞いている。
「悪魔は倒すものだと」
「……」
「それが、正しいことだと」
「……」
「ずっと、信じていました」
アゼリアは 目を伏せる。
「でも」
声が 僅かに揺れた。
「……あの悪魔は」
サリエル。
その名前が 頭に浮かぶ。
「……私に」
『助けて』
あの声。
「……生きたいと」
「……」
「そう言ったんです」
ラフィエルの表情が、 ほんの僅かに変わった。
けれど 何も言わない。
「……私は」
アゼリアは 拳を握った。
「それを聞いて」
「……」
「剣を振り下ろせなかった」
沈黙。
「……」
「私は」
アゼリアは 苦しそうに笑った。
「弱くなったんでしょうか」
ラフィエルは すぐには答えなかった。
しばらく 月を見上げていた。
そして、
「……リア」
「はい」
「君は」
ラフィエルは ゆっくりと言った。
「昔よりも」
「……」
「ずっと強くなったよ」
アゼリアは 顔を上げた。
「……でも」
「ただ」
ラフィエルは 続ける。
「強さというものは」
「……」
「剣を振れることだけではない」
「……」
「剣を振るべきか」
「……」
「振るべきではないのか」
「……」
「その両方を考えられることも」
ラフィエルは 静かに目を細めた。
「強さなのだと、私は思う」
「……」
アゼリアの胸が 熱くなる。
「だが」
ラフィエルは 続けた。
「その答えを」
「……」
「私が決めることはできない」
「……」
「君が」
「……」
「自分で選ぶことだから」
その言葉を 聞いた瞬間、 アゼリアは 何も言えなかった。
ラフィエルは 自分に答えをくれない。
正しい道も。
間違った道も、 示してくれない。
けれど、 それが 今は ありがたかった。
「……師匠」
「何だ?」
「私は」
アゼリアは ゆっくりと言った。
「まだ」
「……」
「答えが分かりません」
「そうか」
「でも」
少しだけ 笑った。
「……もう少しだけ」
「……」
「自分で考えてみたいです」
ラフィエルは 静かに頷いた。
「それでいい」
その一言が 胸に落ちた。
「……」
しばらく、 二人で 黙っていた。
昔と同じように。
ただ、 隣にいる。
それだけで 安心できた。
けれど やがて 空が、 少しずつ明るくなり始めた。
夜が終わる。
「……もう、戻らないと」
アゼリアが 立ち上がった。
ラフィエルは 何も言わなかった。
ただ、 少しだけ 寂しそうに目を細めた。
「……」
アゼリアは その表情に気づいた。
「師匠?」
「……いや」
ラフィエルは 笑った。
「何でもない」
「……」
嘘だ。
アゼリアには 分かった。
何か 言いたいことがある。
でも、 言わない。
いつもの ラフィエルだった。
相手を尊重するために、 自分の感情を 奥へ押し込める。
その姿が、 昔の自分と 重なった。
「……」
アゼリアは 胸の奥が 痛くなった、
「……師匠」
「ん?」
「また」
アゼリアは 言いかけて、 少しだけ笑った。
「……帰ってきてもいいですか」
ラフィエルの目が 僅かに見開かれる。
「もちろんだ」
その返事は あまりにも早かった。
「ここは」
ラフィエルは 優しく笑う。
「君の帰る場所だから」
「……」
アゼリアは 唇を噛んだ。
泣くつもりなんて なかった。
なのに 視界が 少しだけ滲んだ。
「……ありがとうございます」
「リア」
「はい」
「……気をつけて帰りなさい」
「……はい」
アゼリアは 背を向けた。
一歩 踏み出す。
けれど、 すぐには 飛び立てなかった。
「……」
もっと ここにいたい。
もっと 話したい。
昔みたいに、 ただ 隣にいたい。
けれど、 戻らなければならない。
自分のいる場所へ。
「……」
アゼリアは 翼を広げた。
そして、
「師匠」
振り返る。
「……ありがとう」
ラフィエルは 微笑んだ。
「おかえり、リア」
その言葉に アゼリアの胸が、 大きく揺れた。
――おかえり。
その言葉は、 帰ってきた者に向けられる言葉だ。
けれど 今の自分は、 また ここを離れようとしている。
アゼリアは、 それでも 笑った。
「……行ってきます」
「……ああ」
「また、帰ってきます」
ラフィエルは 何も言わず 頷いた。
アゼリアは 夜空へ飛び立つ。
翼が 風を捉える。
身体が ゆっくりと上昇していく。
下を見る。
ラフィエルが まだ そこに立っている。
小さくなっていく。
けれど、 最後まで こちらを見ている。
「……」
アゼリアは 振り返らなかった。
振り返れば、 戻ってしまいそうだったから。
「……」
夜明け前の空を、 一人 飛んでいく。
胸の奥には まだ 答えはない。
悪魔を倒すことが 正義なのか、 分からない。
サリエルを どうすればいいのかも、 分からない。
それでも、 一つだけ 分かったことがある。
――迷ってもいい。
選ぶ途中にいてもいい。
そして、 自分が選んだ道を いつか、 自分自身で受け止めればいい。
「……」
アゼリアは 少しだけ 笑った。
遠くに、 天界の光が見えてくる。
その光の中へ、 アゼリアは 戻っていく。
まだ 天使として 戻っていく。
けれど もう、 昨日までの自分と 同じではなかった。