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浅い川のせせらぎが、鼓膜を優しく撫でていた。
水面は鏡のように穏やかで、春先の午後のような、どこか間の抜けた暖かな光を反射している。太宰治は、いつもの砂茶色のコートの裾を濡らしながら、当てもなくその川を歩いていた。 足首を浸す程度の深さしかない。水底の石は丸く、滑らかで、一歩踏み出すたびに心地よい冷たさが伝わってくる。
(ここは何処だ?)
自問自答の声は、形にならずに喉の奥で消えた。 最後に何をしていたのか、思い出せない。いや、思い出そうとする意志そのものが、この微睡みのような空間では霧散してしまう。ただ、胸の奥に澱のように溜まっていた重たい何かが、今は不思議と消え去っていた。
ふと、顔を上げた。 対岸に、一人の男が立っていた。
逆光の中で、そのシルエットは滲んでいる。だが、その特徴的な赤い頭髪が視界に入った瞬間、太宰の心臓が、死んでいたはずの時計の針が動き出すように大きく跳ねた。 見間違えるはずがない。 その猫背気味の立ち姿も、どこか世俗の喧騒から切り離されたような独特の空気感も。
「あれ……?」
太宰は足を止めた。 名前を呼ぼうとして、声が震える。信じられないという思いと、どうしようもない切なさが混ざり合い、肺の空気を奪っていく。けれど、足は勝手に動き出していた。
「――織田作!」
反射的に叫んでいた。 太宰は川を蹴立てて走り出した。水飛沫が舞い、コートが重く水を吸う。それでも構わなかった。転びそうになりながらも、ひたすらに、向こう岸に立つ彼を目指して。
対岸の男――織田作之助が、こちらに気がついた。 彼はゆっくりと顔を向け、驚いた風でもなく、ただ静かに太宰のことを見つめている。その眼差しは、あのバー・ルパンでグラスを傾けていた時と少しも変わらない。
岸が近づく。太宰は息を弾ませ、もつれる足で砂利の地面を踏みしめた。 喉が焼けるように熱い。言いたいことが、伝えなければならないことが、堰を切ったように溢れ出してくる。
「織田作、聞いてくれ。私は、君の言った通りにしたよ」
太宰は肩で息をしながら、一気に言葉を紡いだ。
「あの後、ポートマフィアを抜けたんだ。今は、武装探偵社というところにいる。人を救う側の仕事だ。……ああ、君には結局、最後まで追いつけなかったけれど。それでも、マフィアにいた頃よりは、ほんの少しだけマシな人間になれた気がするんだ」
織田は何も言わず、ただ太宰の言葉を拾い上げるように聞いている。
「背も、少し伸びたんだよ。ほら、君と並んだら前より差が縮まっているはずだ。それから……」
太宰はさらに一歩、踏み出そうとした。 岸との距離は、あと二メートルほど。手を伸ばせば、その古びたベージュのコートの袖に触れられるかもしれない。そう思った瞬間、太宰の足が、見えない壁に阻まれたようにぴたりと止まった。
織田作之助が、ゆっくりと口を開いた。
「来るな、太宰」
その声は、驚くほど澄んでいた。 拒絶の響きはない。ただ、決定的な事実を告げるような、静かな響き。
「……え?」
太宰は、呆けたように口を開けた。 理解が追いつかない。ようやく会えた。ようやく、報告ができると思ったのに。
「こっち側に来るな。お前の居場所は、まだそこじゃない」
織田の瞳に、わずかな慈しみが宿ったように見えた。 直後、太宰の視界が唐突に暗転した。
「織田作! 織田作!!」
叫びながら、太宰は闇の中をかき分けるように走った。 ついさっきまで感じていた水の冷たさも、砂利の感触も、織田の存在感も、すべてが急速に遠ざかっていく。 腕を伸ばしても、指先には何も触れない。身体中から感覚が消えていく。温もりも、痛みも、重力さえも。
「織田作!!」
最後の叫びは、深い、深い水の底へと吸い込まれていった。
――。
「……がっ、げほっ! げほっ、ごほっ!!」
激しい咳き込みと共に、肺に溜まっていた水が吐き出された。 無理やり酸素を吸い込んだ衝撃で、全身の神経が悲鳴を上げる。 重い。冷たい。そして、ひどく痛い。 生を実感させる最悪の感覚が、太宰の意識を現世へと引き戻した。
「おい、死に損ない。さっさと起きろ」
頭上から降ってきたのは、聞き慣れた、そして最高に不愉快な低音だった。
太宰は震える瞼をゆっくりと持ち上げた。 視界に映ったのは、濁った夕暮れ空と、その空を背負って立つ小柄な男の影。
中原中也が、そこにいた。
中也は川べりの草地に腰を下ろし、辟易したような顔で太宰を見下ろしている。 彼は既に黒いジャケットを脱ぎ捨てており、手袋も外して傍らに放り出していた。今はちょうど、脱ぎ捨てた自身の靴を逆さまにして、中に入り込んだ小さな魚を「チッ」と舌打ちしながら振り落としているところだった。
「……中也、か」
太宰は掠れた声で呟き、濡れた前髪を払う気力もなく、力なく身を横たえた。 身体の芯まで冷え切っている。先ほどまでいた、あの穏やかな川とは大違いだ。
「当たり前だろ。他に誰がいる。手間の掛かる野郎だ、御前は」
中也は靴を履き直すと、乱暴に髪を掻き揚げた。
「任務帰りに、川面をぷかぷか浮いてる茶色いゴミが見えたと思ったら……案の定、手前じゃねぇか。反射的に体が動いちまった自分に吐き気がするぜ」
太宰はゆっくりと上体を起こした。 全身から水が滴り、お気に入りのコートは泥で汚れている。最悪の気分だ。だが、それ以上に胸の中に残っているのは、あの対岸にいた男の姿だった。
(……こっち側に来るな、か)
太宰は小さく、長くため息をついた。 まだ、許されないらしい。それとも、まだ「善い人間」になりきれていないということだろうか。
「なんだ、その死に損なった魚みたいな顔は」
中也が立ち上がり、太宰の目の前に影を落とす。
「別に。……ただ、せっかく素晴らしい夢を見ていたのに、中也の汚い声で叩き起こされたと思ってね。君の生存そのものが私の入水美学に対する冒涜だよ」
「あぁ゛!? せっかく助けてやった恩人に言う台詞か、それが!」
中也の額に青筋が浮かぶ。 いつもの、見慣れた光景。ポートマフィア時代から幾度となく繰り返されてきた、無意味で、けれどどこか安心する罵り合い。
「大体、何なんだその格好は。探偵社に入って少しはマシになったかと思えば、相変わらず自殺愛好家かよ。お陰で俺の特注の靴が台無しだ」
「それは残念。いっそそのまま水没して壊れてしまえば、君の身長も少しは低く見えただろうに」
「殺すぞ手前!!」
中也の蹴りが太宰の脇腹を掠める。太宰はひらりと、力のない動きでそれを躱した。 口を動かしているうちに、少しずつ体温が戻ってくるのを感じる。
織田作が言った「居場所」が、どこにあるのかはまだ分からない。 人を救う側。光の差す場所。 そこで足掻き続けることが、あの日彼と交わした、目に見えない約束なのだろう。
「おい、立てるか。さっさと失せろ。これ以上おめーの顔を見てると、今度こそ俺が川に沈めたくなる」
中也が悪態をつきながら、脱ぎ捨てていたジャケットを乱暴に拾い上げる。
太宰はふらつきながらも立ち上がった。 足取りは重いが、不思議と心は凪いでいた。
「言われなくても。……ああ、でも中也」
「んだよ」
「……助けてくれて、ありがとうなんて、死んでも言わないからね」
太宰が意地悪く微笑むと、中也は心底嫌そうな顔をして、ペッと地面に唾を吐いた。
「ケッ、期待もしてねぇよ。さっさと帰って、その濡れた雑巾みたいな格好をどうにかしやがれ」
夕闇が迫る川沿いを、二つの影が離れて歩き出す。 一人は黒い闇を背負い、一人は光を探して彷徨う。 交わることのないはずの道が、一瞬だけ重なった午後。
太宰は一度だけ、背後の川を振り返った。 そこにはもう、赤い髪の男も、穏やかなせせらぎもない。 ただ、暗く冷たい水の流れが、音もなく続いていた。
太宰は前を向き、重い足取りで一歩を踏み出した。 生温い夜風が、濡れたコートを撫でて通り過ぎていった。