怪物に切られた腕の傷。キリンさんは、お医者さんのように慣れた手つきで包帯を巻いてくれた。
あまりにプロのような身のこなしに、目を奪われていると、あっという間に治療は終わっていたようだ。
「ありがとう、キリンさん」
「どういたしまして」
治療が終わり、本棚の整理をするキリンさん。
私は眼鏡を見つけるという仕事を終えてしまったため、することがなかった。
そのため、キリンさんの手伝いをすることにした。
「そういえば、キリンさん」
「どうかしましたか?」
「さっきロイと話していたよね?何を話してたの?」
扉越しから聞こえてきた会話を思い出す。
「実は、私もよく……分からないのです」
脚立を使いながら、天井近い本を手に取るキリンさん。
私は、キリンさんと会話をするために本を置いて、すぐ隣で本の整理を始める。
声が空から降ってくるみたいで、本物のキリンさんみたいで面白かった。
「ロイって言ったかな。彼がいきなり部屋に押し入ってきて、私の事を酷いとか言っていましたね。それは、お話ではなく、一方的に話されたという感じです」
さすがマイペースだと心の中で思う。
キリンさんがロイに振り回された様子が目に浮かぶ。
「じゃあ、なんかすごい音が聞こえたのはなんだったの?」
刃物を突き立てるようなあの音。
不意にキリンさんの手が止まる。
途端、頭上の本棚からはみ出していた本が落ちてくる。
その真下にいた私は、ぶつかる覚悟をして目を瞑る。
しかし、衝撃は来なかった。
恐る恐る見上げると、キリンさんが空中でキャッチしてくれていたようだ。
「あらあら、脚立の傍へ来てはダメですよ。いつの間に来ていたんですか?」
キリンさんがいつも通り優しく声をかけてくれる。
しかし、本を掴んでいたその手は、思わぬ状態になっていた。
「キリンさん……その手、どうしたの?」
手は包帯でぐるぐる巻きにされ、薄ら血が滲んでいた。
「あっ、これは……」
キリンさんは、困ったような顔をする。
「ロイと話した際に、色々ありまして……」
私は、扉越しに聞いた記憶を思い出す。
机に刃物を突き刺したような音。
その部屋の中で、ロイとキリンさんが会話をしていた事実。
私はひとつの可能性に行き着く。
「もしかして、ロイに刺されたの?」
キリンさんは、答えることなく、静かに本を元の場所へ戻す。
表情は悲しげで、まるで事実だと答えているようにも見えた。
けれど、追求して欲しくないような。
そんな顔に見える。
「あ、答えたくなかったら大丈夫だよ!」
私は、静かになってしまった空間を埋めるように、手にしていた本を無理やり本棚に押し込んだ。
綺麗に整頓されていた本棚は、隙間なく並んでいたため、いきなり詰め込んでも入ることはなかった。
本棚からゴロゴロと岩が零れてくるように、本が落ちてくる。
「こらこら、そんなに押し込んだら本が可哀想ですよ」
いつの間にか、脚立から降りてきていたキリンさんが、慣れた手つきで本棚に空間を作る。
「はい、どうぞ。これで入りそうかな?」
私は持っていた本を空間に差し込む。
ぴったりの大きさだったようで、隙間なく埋まり、整頓することが出来た。
「手伝ってくれてありがとう」
隣でいつも通りに微笑みを向けるキリンさん。
本を抱えているその手以外は、何もかもいつも通りだった。
ロイが本当に傷をつけたのか。
いや、疑う余地は無いはずだ。
だって、キリンさんの手が傷つけられているのだから。
「どうかしましたか?」
キリンさんが心配そうに、私の顔を覗き込んでいた。
「え、あ、キリンさんの手伝い楽しいなって思って!」
心配をかけないように私は、笑ってみせる。
咄嗟に、言葉と表情をひねり出してみたけど、誤魔化せているかどうか、不安だった。
でも、手伝いが楽しかったのは本当だと、心の中で付け加える。
キリンさんは、一度目を見開くと
「嬉しいことを言ってくれるんですね」
すぐに笑顔になった。
お互い笑い合うけれど、私はキリンさんの包帯が目に付いていた。
血が滲むということは、かなり傷口が開いているのだろう。
それに、ロイならキリンさんを脅迫することも出来たかもしれない。
自分にそう言い聞かせるように、事実を落とし込む。
「ねえ、キリンさん」
キリンさんは、この話を語りたくなさそうだった。
なら、せめて事実に基づく証拠はないだろうか。
傷をつけたであろう刃物。
突きつけられた机。
「はい、なんでしょうか」
その証拠となる物の行方を聞こうと、話を切り出そうとした。
けれど、それはこちらを見つめる笑顔があまりにも幸せそうで……。
「えっと……」
手伝いが楽しかったという気持ちが、キリンさんをそこまで幸せにするとは、思わなかった。
本音だったとはいえ、咄嗟の判断で口にした言葉を悔やんだ。
もっと、上手く気持ちを伝えられるはずだったのに。
私がキリンさんのことを探ろうとしなければ、良かったのかもしれない。
今思えば、怪物に傷をつけられた時、キリンさんも何も聞いてこなかった。
それでおあいこにしよう。
「やっぱ、なんでもない!」
「なんですかそれは」
キリンさんは、小さく笑いをこぼす。
「キリンさんのこと、呼びたかっただけ!」
「あらら、可愛らしいことをするのですね」
目の前にある笑顔を、崩したくはなかった。
その気持ちが、キリンさんの手の傷の好奇心を忘れさせた。
心地よい幸せの空間。
平和なやり取りを二人で、月明かりが差し込む頃まで、堪能していた。
いつの間にか眠っていたようだ。
手には開きっぱなしの本。
それは、本棚の整頓を終えてからのことだ。
「ここにある本は、読者によって内容が変わるものもあるみたいです」
そんなキリンさんの会話から、始まった。
「なにそれ、面白そう!」
「そうですね。ここの本は、たくさんの種類がありますから、貴方の好きな本も見つかるかもしれません」
無造作に近場にある本を手に取る。
茶色に焼けた紙。
読者によって落書きされたり、裂かれたりしている跡が時の流れを感じさせる。
相変わらず、くるくるとした文字で読むことはできない。
手にした本には、顔写真が載っていた。
「それは、日記ですね」
近くに寄ってきたキリンさんが、久しく会う友人のように本の種類を言い当てる。
「詩人の日記ですね。私たちが生まれる前から活躍していた方の、日常が記されている本です」
「日記も置いてあるんだね!」
顔写真からも詩人という風格が漂っている。
分厚く重みのある本からは、詩人さんの人生のすべてが詰まっているようだった。
「この本は、詩人さんの生きた証だね!」
キリンさんは驚くように目を見開くと、すぐに微笑んで
「そうですね。彼らのすべては、本の中でも生きているのかもしれませんね」
キリンさんはそう呟くと、私の本を手に取り、本棚に戻す。
本があるべき場所に帰っていくようだ。
「ここ一帯は、全て偉人の日記です。貴方の知りたいことはここにはないと思います」
キリンさんは、見透かしたように話す。
知りたいこと……。
考えてみれば、ずっとここへ来て思っていることが一つある。
「この世界のことが書かれている本のこと?」
キリンさんはなぜか、目を伏せ、悲しい表情を浮かべる。
なぜかその顔が何度も目につくのはどうしてだろう。
「きっとあるとは思います。ですが、私でもまだそのような本は見つけていません」
私は、書斎を見回した。
部屋一面を埋め尽くす本棚とそれをきっちり埋める本がある。
けれど、知ることが出来ないでいる。
目先に並ぶ人生が詰め込まれた本からも、私の知りたいことはない。
そんなものは、初めから存在しなかったとでもいうように現実が立ちはだかっていた。
そんな現実が不思議だった。
「この世界って本当にどこなんだろうね」
ここに来る前の記憶も、私が誰であるかもわからない。
それが異常なことなのか、はたまた日常的なことなのかさえ区別がつかない。
「私は何者なのかな。これから何をしていくのかも、ここにいる理由も。何もかもわからないよ……」
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