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「いってきまーす。お母さんもお仕事がんばってねー!」
9月半ばになった。新学期も始まり、電車通学に慣れて来た美幸は、マンションのドアを開けた。お盆の帰省の際にケガをした腕もすっかり治り、元気いっぱいに手を振る。
ふたりで暮らし始めてから、美幸の表情は穏やかになった。
親の離婚のとばっちりで嫌な思いをたくさんしたのに、母親を気づかう優しい美幸の笑顔が眩しい。
沙羅は美幸へ笑顔を返した。
「気をつけてね。いってらっしゃーい」
パタンとドアが閉まり、ふぅ~っと、息をつく。
「私もお部屋の掃除して、仕事に行かなくちゃ!」
出勤前に掃除や洗濯を終わらせ、自分の身支度を済ませるのは、時間に追われる作業だ。
でも、仕事に行くのが楽しみで気合が入る。
なんていうか、仕事先である藤井家に居るネコたちの可愛さにメロメロなのだ。
「仕事先で、癒やされるなんて良い職場だわ」
仕事の初日は、指導係として職場の大先輩である青木早苗が付き、プロのお掃除の手順や心使いを教えてくれた。主婦歴13年の沙羅でも、プロには敵わないと関心させられる技が満載だった。
そのおかげもあり、効率良く掃除をこなし、空いた時間でネコ様をモフる最高とも言える職場へ出勤だ。
コンシェルジュの居るエントランスを抜け、エレベーターに乗り込むと最上階のスイッチを押した。
独特の浮遊感を感じ、エレベーターは上がり始めた。
どん底まで落ちたのだから、これ以上の底はないだろう。
後は、運気が上がるだけ、きっとこれからの未来は明るいはず。
チンと扉が開き、沙羅は足を踏み出した。
「藤井様、おはようございます」
広い玄関で、スリッパに履き替えていると、早速、猫のひろしがニャーと出迎えくれ、そっと抱き上げた。
柔らかな毛がくすぐったい。のりたまもゆかりも興味深くこちらの様子を窺い、どのタイミングで撫でてもらおうかと考えているようだ。
リビングに進むとソファーで書類に目を通していた藤井が顔を上げる。
今日のスタイルは、ライトブラウンのパンツスーツで相変わらず年齢不詳だ。
「おはよう、沙羅さん。早速で悪いんだけど、お使い頼まれてくれないかしら?」
「はい、どのようなご用件ですか?」
「実はね、このネックレスなんだけど、留め金が壊れてしまって。主人からもらった大切なものだから、直しに出して来て欲しいの」
それは、百合の花をモチーフにした上品なデザインのネックレスだ。
亡くなったご主人との思い出のある品物なら、早く直したいという気持ちがわかる。
ひろしを床に下ろし、有名ブランドメーカーのロゴマークの付いたジュエリーケースを受け取る。
「はい、わかりました」
「無理言って悪いわね。お店には連絡を入れて置くから」
「気になさらないでください。他にお使いがあれば、買い物してきます」
「じゃあ、お言葉に甘えてデパートの地下で、プリンとラスクを買って来て。あっ、もちろん二人分ね」
そう言って、「ふふっ」と笑う藤井は、沙羅の分のおやつも用意してくれるようだ。
つられて、沙羅も「ふふっ」と笑う。
「では、いってきます」
ウキウキ気分で藤井の家を後にして、駅へと向かう沙羅に、この後起こる出来事など予測しようもなかった。
銀座中央にある路面には、格式のある造りの店が並んでいる。
誰もが憧れる有名ブランドBellissimoは華やかさの中にも品格が漂う造りだ。
一般家庭で生まれ育った沙羅には、その入口をくぐる事さえも気後れしてしまう。
まさに敷居が高いという言葉の具現化とも言えるような店構え。
けれど、今日は藤井に頼まれてのお使いだ。
勇気を持って、足を踏み入れた。
直ぐに店員に「いらっしゃいませ」と、教本通りの綺麗なお辞儀をされた。
沙羅は用件を済ませようと声を掛ける。
「すみません、アクセサリーの修理をお願いします」
藤井の名前を出すと店員はにこやかに微笑み「お電話で伺っております」との返事。
ネックレスを手渡して終わりかと思って居たのに、「こちらへどうぞ」と誘導される。
テーマパークのお城の探索ツアーに参加するようなドキドキワクワク感を味わいながら、ひとつ奥の部屋に入った。
その部屋は、ギリシャ建築に出て来るような柱が通路両側にあり、その柱の影にソファーセットが置かれていた。
柱に隠れるように置かれたアンティーク調のソファーに腰を下ろして、ネックレスをケースごと預けると、店員は御預表に記入を始めた。
すると、静かだった店内が、にわかに浮き足立つ。数人の店員が奥の部屋から入口へ移動して行く。
有名人でも来るのかな?と、ぼんやり思った。
少しして、男女の声が近づいて来る。
「せっかく慶ちゃんと一緒に来たんだから、何か買ってもらおうかな?」
「今日は、ボディーガードで連れてこられたと思ったのに……」
沙羅は、男性の声に「えっ⁉」と思って、振り返った。柱の合間から綺麗な女性と歩く慶太の姿が見えた。
ハッと息を飲み込む。
「婚約したんだからプレゼントしてくれてもいいでしょう?」
「しょうがないな。今回は特別だからな」
「ふふっ、やっぱり優しいのね。ありがとう慶ちゃん」
店の更に奥にあるVIPルームへふたりは入り、ドアが閉じると姿が見えなくなった。
沙羅は、目の前で見た光景が信じられなくて、思わず立ち上がる。
途端にスッと血の気が引いて、クラリと目の前の景色が歪んだ。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」と店員に支えられる。
仕事の用事でこの店に来ているのに、騒ぎを起こしたら藤井の顔をつぶす事になってしまう。
生活がかかっているのに、しっかりしなくちゃと震える手を握り込んだ。
重厚なドアがの向こうで、どのようなやり取りがされているのか、沙羅には窺い知れない。
ただ、当然のようにVIPルームに入れるふたりとは、自分の住む世界が違うのはわかる。
沙羅は、心の中で慶太の事を想うと決めた、金沢駅での別れを思い出していた。
そう、「私の事は忘れて」と自分で言ったのだ。
慶太は、その言葉通りに記憶から自分を消し去り、新しい道を歩き始めたのに違いない。
だから、これでいいのだと、自分自身に言い聞かせた。
握り込んだ手に無意識に力が籠り、爪が手のひらに食い込んでいる。その痛みで我に返る。
気持ちの行き場が無くて、相変わらずダメな自分が嫌になる。
「ご迷惑をおかけして、すみません。では、お預けしたお品物よろしくお願いいたします」
平静を装い、店員からお預かり伝票を受け取ると、足早に店から出てデパートへ向かった。
夏の名残りの日差しが、雲に遮られる。
風向きが変わり、ひんやりとした空気が流れ出した。
どうやって、藤井の家に帰って来たのか、沙羅の記憶は曖昧だ。
それでも手には、頼まれたプリンとラスクが入った紙袋を下げていた。
「遅くなりました」
沙羅の声にリビングのソファーに居た藤井は手元のタブレットから顔を上げる。
「ご苦労様でした。お使い頼んで悪か……やだ、顔色が真っ青じゃない」
藤井は慌てて駆け寄り、伸ばした手を沙羅のおでこに当てる。
「熱はなさそうね。夏の疲れが出る時期だから心配だわ」
柔らかい手のひらから伝わる温かな体温、それが沙羅の冷えた心に沁みる。
「ご心配おかけしてすみません。冷房の効いた所から外に出たら貧血気味になってしまって、でも、もう大丈夫です。ありがとうございます」
「そう? でも、無理しないで座って居ていいのよ」
「でも……」
沙羅は、仕事中なのに座って居るのは悪いような気がした。
「いいの、いいの。じゃあ、おしゃべりの時間にしましょう。もちろん、雇用主の頼みだもの。付き合ってくれるわよね」
と、ちゃめっけたっぷりに言う藤井の優しさは、母親の温かさを思い起こさせる。
「はい、ありがとうございます」
「ふふっ、いいのよ。沙羅さんを見ていると、親戚の子を思い出すのよね。お正月や誰かの結婚式とかで、集まった時にお姉ちゃん、お姉ちゃんって、慕ってくれて可愛かったわ。その子にちょっと似ているような気がするのよね」
「似ていますか?」
「そうね。まあ、その子は私の3コだか4コ下だから、今だとアラフィフになっているわね。最後に会ったのは、祖母の葬儀の時で彼女が中学に入ったばかりだったわ。その後は、私が留学や結婚で地元を離れてしまって……」
「祖母が亡くなると、集まる用事も無くなるし、みんな地元を離れて暮らすようになって……人の縁を繋ぐのって難しいわね。久しぶりに帰郷したら、彼女は亡くなってしまっていたの。人って、自分から会いに行かないと会えなくなるのよね」
藤井は、懐かしむように窓の外へ視線を向けた。
そして、ぽつりとつぶやく。
「老婆心で言わせてもらうけど、沙羅さんも、会いたい人がいるならためらわずに会いに行った方がいいわよ。人なんて、いつ何があるのかわからないのだから」
親類の子だけでなく、最愛の人をも亡くした藤井の言葉は、沙羅の胸に刺さる。
「はい……」
と言った瞬間、涙がハラハラとこぼれ落ちた。
金沢駅で別れてから、慶太に会いたいを思っていた。
けれど、今日見た慶太の隣には、綺麗な婚約者が居たのだ。
慶太と別れの瞬間、どうするのが正解だったのか……。
離婚したばかりで将来の見通しの立たない自分が、慶太を縛りつけるなんて出来なかった。
高良聡子が言っていたように、慶太には然るべき所から妻を迎えるのが筋のはずだ。
だから「私の事は忘れて」と言った。
でも、会えないと思うと、悲しくてたまらない。
忘れられたと思うと、胸が苦しくて息もつけない。
そして、この瞬間も会いたくてしょうがない。