それを聞いて、私は苦笑めいたものを浮かべるのが精一杯だった。
レイのことはその通りで、言葉がない。
犬の散歩の人が、すべり台の近くを通りかかった。
「そろそろ行こうか」
それを横目に、拓海くんは立ち上がる。
私も立ち上がろうとした時、拓海くんがコンビニ袋を手にこちらを振り返った。
「なぁ、澪」
「ん?」
「今から言うのは、まぁ独り言みたいなもんだけどさ。
さっきも言ったとおり、俺はずっと澪の近くにいたつもりだった。
けど、澪の父さんのこと……5年も話してもらえなかったこと。
それを少し寂しく思ったよ」
拓海くんの声音は普段と変わらない。
だけど響きはとても弱くて、傷つけてしまったとはっきりわかった。
「……ごめん」
思わず口からこぼれた。
拓海くんは優しい。昔からずっとだ。
そんな優しい人を、今とても寂しそうに笑わせてしまっている。
「だーかーら、俺の独り言だって言っただろ!
じゃあ、帰るか!」
東屋を出て、拓海くんは右手を私に手を差し出した。
それがあまりにも自然だったから、昔ここで遊んだ帰り、いつも手を繋いでいたことを思い出した。
「明日さ、昼過ぎに家を出るよ」
拓海くんは手を差し出したまま言い、私はわずかな躊躇いを挟んで、その手を握った。
「……そっか。なら駅まで送るね」
「おう、よろしくな。
あと澪。
俺のいない間に、あいつにたぶらかされんなよ」
本気とも冗談ともつかない言い方だった。
返事のできない私は、かわりにできるだけ明るく笑う。
だけど拓海くんの気持ちが右手から伝わってきて、笑っているのに胸が苦しかった。
翌日。私は午後2時すぎに駅で拓海くんと別れた。
2年前の春、今日と同じように拓海くんを見送ったのを思い出す。
その時も何度も後ろを振り返る拓海くんに、何度も手を振り返した。
拓海くんの姿が見えなくなると、私は無意識に電光掲示板を見上げた。
朝食のあと、私の部屋のとなりで声がした。
拓海くんがレイとなにか話をしているのがわかった時は、かなりドキドキした。
話の内容が気になったけれど、さすがに二度立ち聞きするわけにもいかない。
それからレイはすぐに家を出ていき、私はまだレイと話ができていなかった。
見送りを終えて家に戻れば、けい子さんが出かける支度をしているところだった。
「ねぇ澪。
今日予定がないなら、ちょっとお手伝いに来てくれない?
生徒さんがたくさん見えるのよ」
「あぁ、うん。わかった」
やることがないより、あったほうが気がまぎれる。
私は二つ返事で頷き、けい子さんと一緒に公民館に向かった。
「そうそう。
この間拓海が言ってたけど、澪は英語教室の先生になりたいんだって?」
歩きながら尋ねられ、私は小さく頷く。
「うん。なれたらいいなーって思ってるよ」
進路のことをはっきり話をしていなかったけど、そろそろきちんと言わないといけない。
「それなら、もう少し教室のお手伝いに来てくれるとありがたいわ。
澪がやる気なら、なにかつてを探してあげるし」
「ほんと?
ありがとう! 頑張る」
自分で就職先を探すつもりだけど、そう言ってくれるのはすごくありがたい。
笑ってお礼を言えば、けい子さんも笑い返してくれた。
夕食の後、私は時計を気にしつつテレビを見ていた。
レイはまだ帰っていない。
今見ているのは、医療ものの2時間ドラマ。
こういうのは好きなのに、レイにお父さんのことを早く聞きたくて、内容がぜんぜん頭に入ってこなかった。
いつの間にかとなりにけい子さんが座り、ふたり並んでテレビを眺める。
それから時計の針が九時半をまわった時、玄関があく音がした。
『ただいま』
声が聞こえたと同時に、鼓動が速くなる。
ソファー越しに後ろを振り返ると、レイがいつもの笑顔でこちらを見ていた。
『ただいま』
『レイ。おかえりなさい。まだ外は暑いでしょう』
けい子さんに言われ、レイはすぐに頷く。
『ええ、日本は蒸し暑いですね。
シャワーをお借りしてもいいですか?』
『どうぞ。私たちはもう済ませたから』
彼がいなくなると、私は視線をテレビに戻した。
けれどいつ話しかけようかと、そればかりに気をとられて落ち着かない。
1時間後、私は眠いふりをしてけい子さんに声をかけた。
「そろそろあがるね」
リビングを出た途端、心臓の音が耳まで聞こえる。
階段をあがり、レイの部屋を見やれば、ほんの少しだけふすまがあいていた。
けれど隙間の奥は真っ暗で、近付こうとする足が止まる。
(あれ……?)
普段のレイはかなり遅くまで起きているから、寝ているとは考えにくい。
部屋に戻っていると思ったのに、もしかしていないんだろうか。
私はそっとふすまを引いた。
そこから中を覗いたと同時に、思わず声をあげそうになった。
彼は部屋にいた。
あいた窓から差し込む月明かりの中、シャツを脱いだばかりの大きな背中が見える。
『ご、ごめん……!』
布団の上に座っているから、もう寝ようとしていたんだろう。
急いでふすまを閉めかけたけど、目に飛び込んできたものの中に、かすかな違和感があった。
目を戻した時、感じた違和感の正体がはっきりわかる。
彼の背中に無数の黒い点が散っている。
薄暗い中でもわかるそれは、火傷かなにかの痕だった。
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