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『……驚いた。
突然ふすまがあくから、びっくりしたよ』
数秒ののち、呆れとも諦めともつかない声で、レイが振り向いた。
『あ、そ、その……。
ごめん、少しあいてたから……』
話があって来たのに、動揺して言いたいことがすべて吹き飛んでしまった。
レイの傍に軟膏のようなものがある。
いつの間にかそれを見つめていた私は、もう一度彼の背に目をやった。
『……俺がここにきて間もない頃、前にも一度こんなことがあったな。
着替えてる時にミオが急にふすまをあけた』
ため息まじりにレイが言い、それで思い出した。
レイを呼んでも返事がなくて、中をあければ彼が上半身裸だった。
『あの時も見られたかと焦ったけど、二度も不意打ちされるとは思わなかった』
私は吸い寄せられるように部屋の中に入る。
近付けば、彼の背にあるのが火傷の痕だとはっきりわかった。
『父親がつけたんだ。
煙草を消す時に、俺の背中で消して』
レイは私を一瞥して、視線を宙に移す。
(え……)
耳に届いた途端、息が出来なくなった。
鼓動が激しく騒ぎ、全身を巡る。
『見た目はふつうの父親だったよ。仕事もちゃんとしてた。
だけど酔うと荒れる人だったから、母は耐えられなくなって、俺を置いてひとりで逃げた。
それ以来、父はさらに酒を飲んで、手に負えなくなったよ。
当時は酒を見るのも怖かった』
レイはかすかに笑った。
私はなにも言えず、細い息を繰り返しながらレイの横顔を見つめる。
『力で勝るようになれば、父に手は出されなくなったけど、人間なんて、なにを考えているかわからない生き物だって思ったよ。
けど、やがてわかった。
父みたいに、上面を飾るだけで、それなりに生きていけることも』
足に力が入らない。
けれどレイの傍に歩みより、いつの間にか膝をついていた。
『大きくなるにつれて、明瞭で後腐れのないものしか選ばなくなった。
すべてに対価を求めれば、過剰な期待もないし、傷つくこともないから』
『レイ……』
声が震えた。
彼は憂いのある笑みをそのままに、私を横目に見る。
『そんな顔をしなくても、ミオにはもう見返りはと言わないよ。
けど今まで生きてきた生き方は、そんなに簡単に変えられない』
蒼い目はとても静かだった。
笑みを浮かべていても、彼の心はここに存在しない。
やがてレイは窓の外に目を向けた。
背中にあるいくつものケロイドが瞳に映り、胸が痛くて押し潰されそうになる。
『レイ』
胸が痛い。
痛くて苦しくて張り裂けそうだった。
『レイ。
だれでも、人はだれかに愛される権利があるよ。
だからそんな悲しいことを思わないで』
痛みに任せてレイの背に手を回した。
抱きしめれば、つるりとしたかさぶたの感触が頬に当たる。
何年も消えることのないそれに触れて、涙が出そうになった。
『……この家に滞在して、ミオを見てて……。
そういったこともあるんだと思った。
けど、それはミオが特別なんだよ』
穏やかな口調なのに、突き放された気がした。
それはそうかもしれない。
居候の私のことを、野田家のみんなはとてもよくしてくれる。
レイの境遇を思えば、私なんかがなにを言えた立場でもないのもわかる。
けどどうしても、絶望をひとり背負ったままでいて欲しくない。
『そうだよ、私は恵まれてる。
それは特別なことかもしれない。
けどだれだって、必ずだれかに愛されて生きてるって思ってるの』
『ミオは……いつも理想論ばかりだな。
父親にも母親にも愛されなかったやつが、他人に愛されるはずないだろ』
彼の口から自嘲の笑みが零れた。
私はレイの背中に顔を当てたまま、首を強く横に振る。
『そんなことないよ、そんなことないってば』
どれだけ否定しても、彼の心に届いていないことを、言った私が一番よくわかっていた。
だけど拒絶するレイの背中が寂しすぎて、首を横に振らずにはいられない。
『……もういいよ、ミオ。
言うつもりなんてなかったし、さっきも言ったけど、考えだって変わらない。
今話したことは忘れて』
そう言い、レイは私が回した腕をほどこうとした。
『バカ!忘れるなんて出来るわけないよ。
だいたい、愛されるはずないってどうして決めつけるの。
私は―――』
”―――レイのことが好きなのに”
浮かんだ言葉に、一瞬息が止まった。
回していた腕の力が緩み、わずかにずれる。
『ミオ?』
さっきまでとは別の動悸が生まれた。
予期せず自覚した気持ちに、私の心臓は異常なほど早く波打つ。
『私は……。
はじめレイのことが大嫌いだったよ。
だけど、今は嫌いじゃないし、レイのことをすごく心配してる。だから……』