テラーノベル
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待ち合わせを水族館前に決めたのは私だった。
私の住んでいるマンションからバスで十分程度の場所に水族館がある。
ライトアップされた入場口前では、カップルがチケットを購入していた。
私はそれを横目で見送る。
「やっぱり待ち合わせは駅にしておけばよかったかも」
一野瀬部長はマンションまで迎えに来ると言ってくれたけど、私はそれを断った。
つい仕事のノリで『私を迎えに来る時間の無駄が』なんて考えてしまった。
これが今まで恋愛から遠ざかっていた女の思考力……
『ありがとうございます、助かります』
なんて可愛く言うべきだったかもしれない。
カップルを前にして後悔する私を励ますミニ鈴子はいない。
――孤独。
はぁっとため息をついた。
待ち合わせくらいで、おおげさすぎると思うのかもしれないけど、待ち合わせの時間を十五分も過ぎている。
一野瀬部長のスマホにかけてみたけれど、コール音がするだけで出てくれない。
でも、まだ十五分――そう思っていた。
けれど、一時間経っても一野瀬部長は現れなかった。
すでに周囲は薄暗く、夜の部が始まってしまっていた。
「なにかあったのかな……」
どうして来てくれないのだろう。
約束していたのに。
遅刻ならまだしも、来ることができなくなった時点で連絡してくれれば、よかったんじゃない?
もう帰ろうと何度か思ったのに、足が動かなかった。
「あと五分だけ! そうよ。待つことは悪いことじゃないわよね」
あと五分が三十分になり一時間になり……それでも私は待っていた。
だって、 待つのは恋愛のエッセンス。
思い出せ!私!
本屋で手渡されたあの恋愛小説を!
健気なヒロインはヒーローを信じていた。
遅れてやってくる恋人を待つのはむしろ、ごほうびです!!
連絡がないってことはここに来るってことよ!
前を向いた――その時、駐車場から走ってくる人影が見えた。
いつも慌てることのない人が一生懸命走ってくる。
あの悠然とした態度からは想像できない。
この人でも慌てることがあるんだ……待っていた時間を全部忘れるくらい衝撃だった。
「悪い! 新織!」
「い、いえ……」
息を切らせている姿。
これはご褒美を通り越して、後光さえ感じるわ。
帰らなくてよかったぁー!
このシチュエーション、最高すぎる。
ありがとう、神様。
思わず、乙女ポーズで天に祈りを捧げた。
「えーと、なにかあったんですか?」
「ああ。社長から呼ばれて……間に合わせるつもりが……連絡できずに申し訳ない……」
「いえ、大丈夫です。一時間くらいなんでもありません!」
一野瀬部長は息を整え、微笑んだ。
乱れる髪と息。
いいじゃないですか。
これ。
カッを目を見開いて、その乱れる様を凝視してしまった。
たまりませんな。
いつもは澄ました顔の男の慌てる姿。
これはオイシイ。
ギュイーンとテンションが爆上がりした。
「さっ! 行きましょうか! 気にしないでください(ごちそうさまでした)」
誤魔化すように言った言葉がまるで大張り切りで私が仕切っているようで、『うわ……失敗した。デート初心者ですってかんじだったかも』と思ったけれど。もう遅い。
「新織は優しいな」
いつもの威圧感ある雰囲気は消え、柔らかな表情で微笑んだ。
う、うわあっー!
高貴な犬が突然、私に服従した時のようなときめき。
その表情がたまりませんね、と言いたかったけれど、変態丸出しになるので人として口に出すことは慎んだ。
自然な流れで一野瀬部長は私の手を握り、水族館の館内へ向かう。
待っていたのは青く光るトンネル。
魚が青く光る水の中を泳いでいる。
そして、クラゲのコーナーは赤や青、緑や黄色のライトに照らされて幻想的だった。
「素敵ですね」
ゆらゆらと揺れる水が光っていた。
「今日、遅れたぶんも楽しめるようにまた来よう」
「は、はい……」
――またってことは、次のデートの約束ってこと!?
頭の中でイルカショー(妄想)が始まった。
水族館のお姉さん『はーい!挑戦したい人~!』
子供たちに混じって手をあげる私。
一野瀬部長『鈴子は可愛いところもあるんだな』
可愛い!?
私、可愛いですか?
妄想なのに、照れてしまう私は変態だ(今さら)。
――いやいやいや!? 違う、違うの! そうじゃないわよ!
子供たちに混じって手を挙げてどうするの(やりたいけど)。
大人はしっとりイルカショー!?
次回のデートのシミュレーションをしてる場合じゃない。
今、重要なのは一野瀬部長から言われた『また来よう』という言葉。
私たちの関係は、これからも続く。
――恋人として? それとも同僚として? もう同僚じゃないよね?
だって、さっきからずっと繋いだままの手は、どこからどうみても完璧に恋人。
頭の中は魚より隣の一野瀬部長の動向だ。
これからどうする!?
どうするの?
魚の群れを眺めるよりは、一野瀬部長の生態を知りたい。
ふっと一野瀬部長が笑った。
「な、なにか面白いことありました?」
「いや、新織。俺のこと見すぎ」
一野瀬部長が水槽のガラスを指さした。
ガラスに映っているのは、横並びの私と一野瀬部長。
私が魚じゃない方を見ていたことは一目瞭然。
「すっ、すみません」
ぎゃああああっ!
妄想しまくりの変態だと思われた(事実だけど)。
手に汗をかいたような気がして、手をほどこうとすると強く握られ、耳元でささやかれた。
「新織。好きなだけ見ていていいぞ」
お前ならな、と小さく呟いて私の唇を塞いだ
それがキスだと認識するまで、時間を要した。
そっと離れる瞬間の表情も指が髪に触れた感触も特別だった。
――恋人同士。私と一野瀬部長は恋人同士なんだ。
恋愛初心者の私にもわかるくらいのキス。
私は完全に一野瀬部長を好きになってしまったようだ。
もう――戻れないのかな。
私の世界には。
一野瀬部長といると彼のことで頭がいっぱいになって、なにも考えることができなくなってしまう。
もう私の中にいたミニ鈴子たちが永遠に戻ってこないような気がしていた――
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