テラーノベル
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朝の教室は、ざわついていた。
昨日、遥が突如休んだことで、クラス全体が「一日遅れの歓迎」を用意していた。
それは「イベント」として、既に予定されていたようだった。
「おっ、来た来た」
「サボった罰、今日だからな」
「しかもさ……聞いた?」
「何か“日下部くん”からお達しがあったんだって〜」
誰かの低い声が笑いを誘い、数人の手が、椅子に座った遥の背を叩いた。
強く、あるいは軽く。
音では判別できない種類の“加減”だった。
遥は瞬きもせず、前を向いたまま唇を引き結んだ。
首筋を走る痺れは、昨日の打撲の名残だ。
骨に近いところが、まだうずく。
「お達しって、アレだよ。ほら、“やりすぎるな”って」
「“今日はマイルドに”だってさ。お前、ラッキーだなあ」
「まあ……手加減って、どのくらいの話か知らねぇけど」
「“マイルド”に、何発が限界なのか、試すしかねーな」
笑い声。
机を蹴る音。
その音に混ざるように、椅子の脚が引きずられ、誰かが背後から遥のシャツを掴んだ。
「立てよ」
「こいつ、動き鈍くね?」
「昨日、家で何かされたんじゃね?」
瞬間、遥の背筋が跳ねた。
笑いが止まった。
──知ってるのか?
だが、その疑念はすぐに霧散した。
「やっぱあれか、“ウチらのほう”のが強いって証明してぇのか?」
「じゃ、手加減って言われたからさ……今日は二人ずつくらいで回す?」
「日下部が言ったってことは、了承済みってことでしょ?」
「……日下部?」
小さく、遥の喉が鳴った。
聞こえたのは、自分だけだ。
誰も返事をしない。
誰も目を合わせない。
ただ、笑う。
ただ、静かに笑う。
──違う。あいつは、そんなこと……。
そう思いたかった。
けれど、日下部の視線は、いつも遥の背中のどこかを見ていた。
冷たく、無関心に。
まるで、「監視者」のように。
“日下部のお墨付き”。
その一言が、遥の中で何かを決定的に変えた。
昼の暴力は、いつもより長かった。
保健室ではなく、階段裏──湿ったコンクリの壁に叩きつけられた背中は、呼吸のたびに痛んだ。
「なあ、“あいつ”の指示だよな?」
「だから今日は、“ちゃんと報告”しねーと……なぁ?」
小さなICレコーダーが、笑いながら顔の前に突きつけられる。
「“ありがとうございました”って言っとけよ。ほら、せーので」
「……っ、ざけんな……」
遥の声は、割れた唇から漏れた血と混ざった。
誰も聞いていないふりで、全員が聞いていた。
誰も命令していないふりで、全員が従っていた。
誰も笑っていないふりで、全員が笑っていた。
チャイムが鳴っても、誰も席を立たなかった。
“この時間”の意味を、クラス全体が知っていたからだ。
教師は誰も来ない。来る必要がない。
今日の「下校前ルーティン」は──掃除用具室。
窓際の席に座っていた男子が立ち上がり、
それを合図に、数人が動いた。
「……もう、時間だよな」
「やるか」
何人かの足音が、わざとらしく重く床を踏んで響いた。
音を立てることで、逃げ場をふさぐように。
遥の首筋に、冷たい汗が伝う。
制服の中の傷口は、すでに昨日の血が乾いてこびりついていた。
動けば裂ける。
けれど──動かなければ、もっと痛む。
「ほら、行こうか」
「……いや? ここでもいいけど?」
誰かが教室のドアを閉めた。
カチリという音が、夕暮れの静寂に刺さる。
「“やりすぎるな”って言われたからさあ……今日は“新しいの”試そっか」
「なあ、スマホまわして。録っとこ。あの人に見せてやんなきゃ」
──あの人。
遥の喉がぴくりと動いた。
それが“日下部”を指していることに気づいた瞬間、
全身の血の気が引いた。
「……あいつが、指示してんのか」
「オレを、こんなふうに……?」
疑問というより、“確信”に近かった。
いや、信じたかったのかもしれない。
そうじゃなければ、こんな残酷なことに、筋が通らない。
背中を押される。
誰かの笑い声。
掃除用具室の扉が、きしむ音。
「静かにしろよ、もうすぐ先生来るから」
「音だけバレないようにね。あとは何しても……問題ナシ」
ぎゅっと、口を塞がれた。
押し倒される床は、ほこりと漂白剤の匂いが混ざっていた。
手が、足が、何本も伸びる。
笑いながら、罵倒しながら、写真を撮るような“音”が鳴った。
「いい顔すんじゃん」
「……あ、またここ、開いてんじゃん。傷、治ってねぇの?」
舌でなぞるように、その場所を指で押された。
遥はもう、声も出なかった。
出さなかった。
出せば負ける。
いや、出しても誰も止めないと、もうわかっていた。
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