テラーノベル
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リビングの照明が、薄暗く落とされている。
遥は日下部の家のソファに座っていたが、もう姿勢すら保てず、半ば崩れ落ちたように丸くなっていた。
服の下、ガーゼを貼った部分からじわじわと滲む痛みがある。
背中、太腿、腕──どこを触れても痣と傷。
午前中、教室でノートを取ろうとして指が震えたとき、誰かが笑った。
午後の掃除用具室では、ふざけたような罵声とスマホのシャッター音が降ってきた。
床に顔を押しつけられたとき、自分がどこにいるのかわからなくなった。
──逃げるなら、今だった。
でも、逃げた先が、どこにも思いつかなかった。
遥がうつむいたままつぶやいた。
「……なんで、あんなことになったんだよ」
日下部はテーブル越しに、ペットボトルの水を指ではじいていた。
返事をしない。
「手加減、するって……言ったんじゃねぇのかよ」
「言ったけど? 通じなかったみたいだな。オレの人望、そこまでなかったらしい」
「ふざけんなよ……」
遥の声がかすれる。
怒りとも、痛みともつかない声音だった。
「おまえが……言ったから、行ったのに」
「違ぇだろ。オレは『勝手にしろ』って言っただけだ」
「……っ」
喉の奥が詰まったようで、遥は言葉を失った。
日下部は、立ち上がってキッチンへ歩きながら、軽く笑った。
「そんなに期待してたわけ? オレが“守ってくれる”とでも思った?」
「──思ってねぇよ……」
即座に返した遥の声は、震えていた。
「じゃあ何で、文句言ってんの?」
冷蔵庫の扉を開けながら、日下部は振り返らずに言う。
その背中が、遥を刺す。
遥は、立ち上がれなかった。
呼吸が浅い。
脈打つ傷の痛みが、鼓動と一緒に脳まで突き抜けてくる。
「おまえ……オレがサボったら、また“バラす”とか言うんだろ……?」
沈黙。
日下部は、缶コーヒーを取り出して、その場で開けた。
「さぁな。……どうしよっかな」
その口調は、やっぱりふざけていた。
本気かどうか、遥にはわからない。
でも、その“不確かさ”が一番怖い。
遥の脳裏に浮かんだのは、あの瞬間だった。
掃除用具室、誰かの笑い声──
「ねえ、これってさ、日下部センパイの趣味?」
「従順な子が好きなんだっけ?」
──違う。違う。違う。
「なあ、マジで……やってんの、おまえじゃねぇんだよな……?」
そう尋ねる声には、怯えが滲んでいた。
日下部はようやく振り向き、遥の顔を見た。
その目に、何の感情もなかった。
「さぁ。やってるって思ってるんなら、それでもいいけど?」
「ふざけんな……!」
遥が、怒鳴るように吐き出す。
身体のどこかが引きつり、また痛みが走る。
「おまえ、……ほんとに最低だな」
「今さら何言ってんの。オレに期待すんなって」
「期待なんかしてねぇ!」
「してたよ、顔に出てた。……勝手にがっかりして、勝手に傷ついて、で、結局オレのせい?」
沈黙が落ちた。
遥は、耐えていた。
痛みも、怒りも、失望も──すべて、喉の奥で押し殺して。
「明日、行くの?」
日下部が、静かに問う。
「……ああ」
「やめとけ。休めよ」
「は?」
「壊れてないうちに、もう休んどけって。……見てらんねぇ」
その一言が、遥の中で爆発した。
「何様だよ……!」
遥の叫びは、空気を割くほどだった。
けれど、返ってきたのは皮肉な笑いだけだった。
「“飼い主”って、オレのこと?」
日下部は冗談のように言った。
「ま、なら躾はちゃんとしないとな」
その言葉が、遥の心に最後の楔を打ち込んだ。