テラーノベル
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玄関を開けた瞬間、空気が変わる。湿った靴、染みついた煙草の匂い、床に落ちた誰かの髪。
何も変わっていない。
一歩中に踏み込んだだけで、息が詰まった。
「おかえり、って言えばいい?」
先に声をかけてきたのは、沙耶香だった。
リビングのソファで足を組み、爪に色を塗っている。
その手元から顔も上げずに、遥の顔色だけを嗅ぎ取るような声。
「“飼い主”とやらのとこで、お勉強してきた?」
返す言葉はない。靴を脱ぐ手が、震えていた。
「で、学習効果は?」
耳元に近づいていたのは、玲央菜だった。
いつの間にか後ろに回っていたその声は、微笑みと刃を混ぜていた。
「“ちゃんと”できるようになった? 泣き方とか。声の出し方とか──」
背中を、舌先でなぞるような言葉だった。
「おかえり、遥」
テーブルの奥から、晃司が手を振った。
笑っていた。
目が笑っていなかった。
「やっぱさ、逃げても戻ってくるよな。
結局──“ここが、おまえの檻”ってこと」
「……っ」
なにも言わず、リビングを横切ろうとする。
逃げ道を探すように、視線は低く。
──ドン。
壁に押し付けたのは、颯馬だった。
いつの間にか回り込んでいた彼は、遥の前髪をつかみあげる。
「逃げんなよ。“歓迎”しねえとさ、可哀想じゃん?」
その手は、優しいようでいて容赦なく、喉元を締め上げた。
口元には、ぞっとするほど“兄弟らしい”笑み。
「“なにされても平気”な顔して帰ってくるの、ムカつくんだよね。
どうせ、また何も言わねえんだろ?」
遥は、ただ見上げる。
言葉は喉で止まり、声にならないままに飲み込まれる。
──バチン。
リビングの照明が明滅した。
その音でようやく、父の姿に気づいた。
「……また、逃げ出してたんだってな」
立ったまま、煙草を咥えた父が言う。
静かな声。だが、その沈黙の重さが、何より恐ろしい。
「いい機会だ。おまえが“どこにも行けない”ってこと──
体に、ちゃんと教え直しとけ」
そう言い残し、父は寝室へと消えた。
つまり、“許可”が出たということ。
誰が先にやるか。
誰がどこを壊すか。
“順番”なんて決まっていない。
背後で玲央菜が囁く。
「さぁ、戻ってきたご褒美。あげなきゃね?」
それは、“誰のものでもない”声だった。
女のものでも、姉のものでもない。
ただ、「壊す者」としての玲央菜の声音。
──遥は黙って、壁に背を預けた。
腕が震えていた。
心はとっくに折れているのに、体だけが生きている。
生きていることだけが、罰のようだった。
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