山中に案内された店は、みなみ自身も以前から気になっていた居酒屋だった。料理がおいしいと評判の店だ。ドアを開けて足を踏み入れた店内にはテーブル席が四つと、四人も座ればいっぱいになるカウンター席があった。
「二人なんですが、大丈夫ですか?」
訊ねる山中に、店の主人らしき大柄な男性がにこやかに応じる。
「カウンター席になるけど、いいですか?」
テーブル席はすでに埋まっていたから、他に選択の余地はなかった。
「大丈夫?」
確認するように山中に問われ、みなみは頷く。これから移動するのも億劫だし、何より入ってみたいと思っていた店でもあったから異論はない。
その席で大丈夫だと告げる山中に、店の主人は言った。
「奥の方から座ってもらっていいですか?」
「はい、分かりました」
席までの短い距離を、山中はみなみに寄り添うようにして歩いた。
表面上は平気な顔をしていたみなみだったが、実際は彼の行動に心臓がどきどきしていた。店の奥まで行き、席の手前で足を止める。上座となる奥側には山中が座るべきだと考えていると、まるでみなみの頭の中を読んだかのように山中が笑顔で言った。
「岡野さん、奥へどうぞ」
みなみは躊躇した。しかし、山中に強く促されて仕方なく腰を下ろした。
彼はみなみの左隣に座り、早速メニューを手に取る。
「好き嫌いはある?」
「いえ、特にありません」
「それじゃあ……。俺のおすすめは、この晩酌セットっていうやつなんだけど、どうかな」
言いながら山中はみなみの目の前にメニューを置いた。その時少し体の位置をずらしたからか、彼の膝がみなみの脚に軽くぶつかった。
「あ、失礼」
「い、いえ。大丈夫です」
ぎこちなく微笑み、みなみは山中から少しでも距離を取ろうと試みた。しかし、椅子は床に固定されていて動かせない。互いの体がぶつからないようにするためにどうすればいいかと適した姿勢を探るが、いい案は浮かばない。やむを得ないと諦めて、結局は大人しく正面を向いていることにしたが、それはそれで山中との距離が近いことに変わりはなく落ち着かない。
「食べ物はこれを頼むんでいい?」
「は、はい」
「何を飲む?アルコールは大丈夫だよね?」
「はぁ、ですが……」
みなみはメニューに目を落としながら迷う。気になる銘柄の酒類がずらりと並んでいる。本当ならあれもこれもと味わってみたいところだったが、今の状況と体調を考えてノンアルコールドリンクを選ぶことにする。
「では、ウーロン茶を」
「え?飲まないの?」
みなみは曖昧に微笑んだ。
「明日も仕事なので」
「俺も仕事だよ。しかも早出」
山中は悪戯っぽい顔をして笑っている。
クールなイメージに反した、なかなか見られないような表情を目の当たりにして、どきりとした。みなみは呆気なく前言をひるがえす。
「じゃあ……少しだけ。ウーロンハイにします」
山中がくすっと笑ってメニューの一部を指差す。
「この日本酒って美味しいらしいんだけど、なかなか出回らないんだってさ。せっかくだから、一緒に頼んで飲んでみない?」
実はそれは気になっていた日本酒だった。この機会を逃したら、次はいつ出会えるか分からない。どうせ少量しか飲まないのだから大丈夫と自分に言い聞かせて、みなみは山中に頷いた。こうして、美味しい酒と美味しい料理、隣には恋している人がいるという、贅沢な時間を過ごした。
「そろそろ帰ろうか」
山中の声に促されてみなみは帰り支度をした。
会計は任せてと強く言う山中に恐縮しつつも甘えて、みなみは席を立つ。店の主人の声に見送られながら、山中の後に続いて出入り口へと足を向けた。
この時になってもみなみの心臓は落ち着かず、また、甘い緊張感も続いていた。とは言え、彼と過ごせたことが嬉しくて、みなみはふわふわした心地で店の通路を歩く。何気なく顔を上げた先に、少し前を歩いていた山中がドアの側に立ってみなみを待っていた。早く彼の所まで行かなければと焦ったが、そこまであと一、二歩という所で、うっかり何かにつまずいてしまった。瞬時にしてみなみは事態を悟る。
『まずい!転ぶ!』
せめて顔だけは守りたいと床に手を突こうとした。
ところが間髪入れずに、みなみの体を受け止める腕があった。
「大丈夫!?」
慌てた山中の声が頭上から降ってきた。
みなみは恐る恐る目を開き、自分の無事を知る。続いて、みぞおちの辺りにがっしりとした腕があることに気づき、混乱しながら腕の元を辿った。そこに山中の顔を見て、みなみの酔いはあっという間に醒めた。
「す、すみません!」
もがきながら彼の腕から離れ、みなみは深々と頭を下げた。心臓が早鐘を打っている。頬は熱すぎるくらい熱い。
「本当にすみません!申し訳ありませんでした!失礼しました!」
詫びの言葉を連発するみなみに、山中は冗談めかして言う。
「役得ってやつだね」
さらに付け加える。
「ちなみにこういう時は、ありがとうって言われる方が嬉しいな」
「す、すみません…」
言われた傍から謝るみなみに、山中は苦笑する。
「また言った」
「あ……」
みなみは慌てて口元を抑え、言い直す。
「あの、本当に、ありがとうございました」
「どういたしまして。とにかく、怪我をしないで良かった。とりあえず外に出よう」
山中はみなみを気遣いながらゆっくりと歩き出した。
その後を追いながら、みなみは山中の腕の感触を思い出していた。鼻先には彼の香りが残っている。それらに心がかき乱されて、胸が苦しい。
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