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今回、恋愛要素0です。
シングルファザー中也×赤ちゃん太宰
午前四時三十分。横浜の空が白み始めるよりも早く、中原中也の耳元で「災害級」のアラームが鳴り響いた。 それは電子音ではなく、生後八ヶ月になる息子、治(おさむ)の全力の咆哮である。
「……う、ぐ……。治、待て……今、今行くから……」
中也は這いずるようにしてベッドから起き上がった。二十二歳という若さでシングルファザーの道を選んだ彼は、この数ヶ月、まとまった睡眠というものを経験していない。目の下には薄っすらと隈が浮いているが、隣のベビーベッドで顔を真っ赤にして泣きじゃくる治を見ると、不思議と身体が動く。
抱き上げると、治はぴたりと泣き止んだ。涙を溜めた大きな瞳で中也をじっと見つめ、短い指で中也の鼻先をぺたぺたと触る。ミルクの匂いと、赤ん坊特有の甘い体温。中也は溜息をつきながらも、その柔らかな背中を優しく叩いた。
「腹減ったのか、それともオムツか? ……よし、どっちもだな」
手慣れた手つきでオムツを替え、キッチンへ向かう。粉ミルクを量り、適温の湯で溶かす。かつて「重力使い」として恐れられた男の指先は、今や一ミリ単位の粉の量を調節し、人肌の温度を完璧に見極めるために使われていた。
哺乳瓶を差し出すと、治は両手でそれを(実際には中也の手に添える程度だが)掴み、一生懸命に飲み始めた。その喉が鳴る音だけが、静かなキッチンに響く。
「手前はいいよな。食って寝て、泣けばパパが飛んでくるんだからよ。……将来、恩返ししろよな」
治はミルクを飲みながら、ふにゃりと笑った。その屈託のない笑顔を見るたびに、中也は自分の選択が間違っていなかったと確信する。
食後のゲップをさせた後、治をリビングのベビーサークルに入れ、中也は自分の朝飯――といっても、昨夜の残りの食パンを口に放り込むだけ――を済ませる。 今日の予定は、午前中に区役所へ書類を出しに行き、午後は治を連れて近所の公園で「外気浴」をさせることだ。そして夕方にはスーパーの特売でオムツのストックを買わなければならない。
朝九時。抱っこ紐を装着し、治を胸元に固定する。治は外に出るのが大好きで、中也が靴を履く準備をしている時から、足をバタバタさせて興奮を隠さない。
「よし、治。出発だ。大人しくしてろよ」
春の風が吹き抜ける街並み。中也は、周囲の視線を時折感じることがある。二十二歳の青年が、一人で赤ん坊を抱えて歩いている姿は、この界隈では少し珍しいのかもしれない。だが、中也はそれを気にする余裕もなかった。
区役所の待ち時間は、新米パパにとって最大の試練だ。 案の定、治は三十分を過ぎたあたりで機嫌を損ね始めた。
「あー、うー! ぶーっ!」
「おい、治。静かにしろ。もうすぐ終わるから」
中也は必死に蟹のガラガラを振り、治の気を引こうとする。だが、治は一度スイッチが入ると止まらない。ついに「ぎゃあぁ!」と、待合室全体に響き渡る声で泣き出した。
「すみません、すみません……」
中也は周囲に頭を下げながら、治を抱いてロビーの端へ移動した。かつてどんな強敵を前にしても引かなかった男が、八ヶ月の赤ん坊の泣き声に冷や汗を流している。 ようやく書類を出し終えた頃には、中也の精神的なHPはゼロに近かった。
「……ったく、手前は本当に派手好きだな」
公園のベンチに座り、中也は大きく息を吐いた。治は泣き疲れたのか、中也の胸元でスヤスヤと眠っている。 昼食の時間だ。中也は自分用のコンビニおにぎりを頬張りながら、治の寝顔を見つめた。 この子の母親はいない。いや、正確には「治」という存在がこの世に現れたときから、中也がそのすべてを背負うと決めたのだ。
午後の公園。 治が目を覚ますと、中也はレジャーシートを広げ、治を地面に下ろした。最近、治はハイハイができるようになり、行動範囲が劇的に広がっている。
「おい、そっちは泥だらけだぞ。こっち来い」
中也が呼びかけても、治は聞く耳を持たない。それどころか、芝生の感触が楽しいのか、キャッキャと声を上げて高速で突き進んでいく。 その時、治の目の前に、一匹の小さな蝶が舞い降りた。
「……ん、あ?」
治は動きを止め、不思議そうに蝶を見つめる。そして、そっと短い手を伸ばした。蝶がひらりと舞い上がると、治はそれを追うように、前のめりに転んだ。
「おっと! 大丈夫か、治」
中也が駆け寄る。治の膝は少し芝生で汚れていたが、彼は泣かなかった。それどころか、空へ消えていく蝶を指差し、「ぱ、ぱ!」と叫んだ。
「……ん? 今、なんて言った?」
中也の心臓が跳ねた。 治はもう一度、空を指差して「ぱ、ぱ! ぱぱ!」とはっきりと言ったのだ。
中也は呆然とした。 初めての言葉。それが「パパ」だったこと。 二十二歳の独身(シングル)パパにとって、それは世界中のどんな宝物よりも価値のある響きだった。
「……そうか。パパか。そうだよな、治。俺がパパだ」
中也は治を抱き上げ、高く空へ掲げた。高い高いをされて、治はケラケラと笑う。 この瞬間、日々の睡眠不足も、区役所での恥ずかしさも、将来への不安も、すべてがどうでもよくなった。 ただ、この子の成長を一番近くで見守れること。それだけで、自分の人生は完成しているのだと思えた。
夕方、スーパーでの買い物。 オムツの袋を小脇に抱え、治を背負い、もう片方の手には夕食の材料が入った袋。 中也の姿は、どこからどう見ても立派な「お父さん」だった。
帰宅後、最後の難関である「お風呂」が待っている。 治はお湯に浸かるのは好きだが、頭を洗われるのが大嫌いだ。
「ほら、治。目に染みないようにしてやるから……」
「いーっ! ぎゃあぁ!」
浴室に響き渡る絶叫。中也も治も、お互いに水浸しになりながらの格闘だ。 ようやくパジャマを着せ終えた頃には、時計の針は午後八時を回っていた。
寝かしつけの時間。 中也は薄暗い部屋で、治を抱きながら、小さな声で歌を歌った。それはマフィア時代に耳にしたことがあるような、どこか物悲しくも優しい子守唄だった。
「……ねんねしな、治。明日もまた、いっぱい遊ぼうな」
治の瞼がゆっくりと落ちていく。 中也は治をベビーベッドに下ろし、その額に軽くキスを落とした。 リビングに戻り、中也は冷めたコーヒーを飲みながら、一日の出来事を思い返す。 区役所のロビー、公園の蝶、そして、あの「パパ」という言葉。 中也はふと、リビングに飾られた一枚の写真を見た。 そこには、まだ赤ん坊だった頃の治を、不器用な顔で抱く自分が写っている。 この平和な世界で、自分たちは生きていく。 誰かを殺す必要もなく、誰かに狙われることもない。 ただ、明日の朝食のメニューを考え、息子の成長に一喜一憂する。 「……最高に贅沢な人生じゃねえか」
中也は独り言を呟き、電気を消した。 翌朝、また午前四時に「災害級」のアラームが鳴るだろう。 治が泣き出し、オムツを替え、ミルクを作る。 そんな当たり前の、代わり映えのしない日々が、中也にとっては唯一無二の、守り抜くべき戦場だった。
中原中也、二十二歳。 最強の重力使い……ではなく、最強の「パパ」の物語は、まだ始まったばかりだ。
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