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「氷室さん、最近いいことあった?」
「えっ」
仕事中、ふいに前の席に座る先輩の男性に声を掛けられて手が止まった。
顔を上げると、ベテラン教師みたいな先輩の表情はニコニコしていた。
今は給与計算や勤務管理などの神経を使う業務ではなく、健康診断のお知らせや、ストレスチェック結果に基づくメンタルヘルス講習会のスケジュール資料などをまとめているところだった。
その資料の中にゆるキャラがいた。
やはり資料の見やすさはこういうワンポイントのキャラクターも大事だなぁ、と思っていたところ不意を突かれ、言葉を発するのがワンテンポ遅くなった。
なにしろ、《《いいこと》》はほぼ毎日起きている。
潤と一緒にお風呂に入ってから、ここ一ヶ月ほど、私と潤は週末には必ず肌を合わせている。
夜寝るときも、一緒のベッドで眠るようになった。
それは潤が「知佳を無理に抱くことはしないから、夜は一緒に寝てほしい。寂しい」と、私に縋るようにお願いをしてきたからだ。
好きな人のお願いはもちろんだが、あの容姿端麗な潤からそんなお願いをされて、断るスキルなど私にはなかった。
「その、いつも通りですが……」
本当のことを言えるわけもなく、当たり障りのない私の返答に、隣の席の女性の先輩がこちらを向いてにこりと笑った。まるで保育園の園長先生みたいな柔和さだ。
「突然『いいことあった?』なんて発言は、今時セクハラになりかねませんよぉ。それよりも氷室さんが明るくなったのは、いいことじゃないですか」
その言葉を受けて向かいの先輩もにこりと笑って、「若者は元気が一番だ」と、わははと笑う。
私はそんなお二人をきょろきょろと見つめながら、資料をまとめる手を止める。
「私、そんなに変わりましたか?」
すると隣の先輩がふふっと笑う。
「先に言いますが、前が悪かったということではないのよぉ。前の生真面目さに、今は明るさが加わった、という感じかしら」
「明るさ……」
女性の先輩が深く頷く。
「えぇ。これでまた氷室さんのファンが増えるのかしら。マニュキュアも口紅も可愛くなったし。いい人のおかげ……なんてね。若いってイイわねぇ」
「ほんと、綺麗になっちゃって。ファンが増えたら、彼氏君も気が気じゃないな。お嫁に行っても、部署を辞めないでね。じゃないと、この部署は年寄りだらけになってしまう」
和やかな雰囲気と、先輩二人に微笑まれて顔が熱くなる。
『彼氏ができておめでとう』という、空気がいたたまれない。
潤との結婚は公にしていない。
なのに、なんだかバレてしまったかのような気恥ずかしさが襲ってきた。首に掛けているネックレスの重みを急に意識してしまう。
「私は別にいつも通りです。爪もその、セルフネイルでベージュカラーですし、リップも薬用の保湿バームです」
社内規定の範囲内。身だしなみの範囲です、とアピールするが、ますます先輩方にニコニコされてしまう。
「それに仕事は続けます。辞める予定……寿退社とかないですし、私にファンなんていません」
熱くなってしまった顔をパタパタと手で仰ぐ。
それでも頬に宿った熱が消えることはなかった。妙な浮ついた空気感の中、上座のデスクに座る、紳士を思わせる初老の上司がコホンと咳払いをした。
「人の恋路を邪魔すると、馬に蹴られてなんとやらですよ」
ふふっと上司が皆に向けて微笑むと、先輩たちも「そうねぇ。まだ死にたくないわぁ」「こりゃ失敬」と会話の流れが止まったので、ほっとする。
上司は私に視線を向けたまま、掲示板に健康診断推奨のポスターを貼ってきてほしいと頼んできた。
これは部署内で唯一、私の結婚を知る上司から助け舟を出されたかと思いつつ、ポスターを受け取る。
「ゆっくりでいいからね」と言う言葉で送り出して貰い、ちょっぴり足早で部署を脱出するのだった。
上司に上手い具合にフォローされたと、心の中で感謝をする。
「ふぅ。こう言う時こそ冷静によね」
気持ちを入れ替えながら、静かな労務部の部屋を一歩出れば、昼下がりの社内は活気に溢れていた。
労務部は個人情報を多く取り扱うから独立した室内に部署を設けているが、同フロアの営業部はオープンフロアだ。
電話の鳴る音、パソコンのキーボードを無心で叩く人、ガラス張りのミーティングルームで会議している人たち。
仕切りがないことで、廊下を歩く私にも営業部の活気の良さがダイレクトに伝わってくる。
こういう明るい社風は我が会社ながら居心地がいいと思いながら、まずはこのフロアのエレベーター横にある掲示板に向かう。
いくらペーパーレス化を進めても、掲示板のポスターや案内書のほうが記憶に残りやすいのだ。
「まずはこのフロアから貼って、それから下の食堂、一番上のカフェテリア……」
最後は法務部があるこの上のフロアの掲示板に行ってから、部署に戻るコースにしよう。
今日は朝早く、潤が先に家を出て行ったので一目会えたらいいなと思った。
大きな掲示板の前で立ち止まり、ちょうどよい隙間を見つけた。
抱えていたポスターから一枚取り出す。残りのポスターは足元に置いて、丁寧に貼っていく。
ふと自分の爪先を見ると、先ほど先輩に指摘されたヌーディーなネイルがつやっと輝いていた。
実はこれはネイルシール。
我ながらそこそこ上手に貼れたとは思うが──これはあの『Uehara』さんが教えてくれた、時短セルフネイルの方法だった。練習を重ねて、朝の出勤前にはさっと貼れるようになった。
「まさかダイレクトメッセージで色々と教えてくれるなんて、びっくりしちゃった」
小さく呟きながら、ポスターの四隅にしっかりと画鋲を押し込み、歪んでいないかと少し離れて位置を確認する。
デスクから離れたことで、ネイルを始めたきっかけを思い出し、頭は私的なことをつらつらと考え始めた。
一ヶ月前、私は潤に浴室で『変わりたい』と告げたが、潤は『変わらなくていい』と言った。
言われた場所は浴室。
当然ながらお互い裸であり、しかも足にキスや愛撫を受けた。
それだけで私はあっけなく、身も心も蕩けた。
潤が私を求めているという告白に、その場で応えて、そのまま愛し合った。
あれ以来、私は潤に『変わりたい』とは言っていない。それは潤の言葉によって、私が迷ってしまったからだ。さっきより小さな声で囁く。
「変わらなくていいだなんて、『ありのままの私を、好きでいてくれる』ということだよね……」
潤は私を受け入れてくれている。
好きな人が私を認めてくれている。
それはとても贅沢なことだと思う。
結婚もしていて、それ以上望むことはないだろう。
潤の言った通りに私は変わらなくても、このまま潤と時間を過ごせば問題なく愛してもらえる。
きっと二人で過ごす時間が、偽りを本当に変えてくれる。
だから私はこのままでいいと……一時はそう思ってしまった。
記憶を手繰り寄せていると頭が下がりそうになったので、ハッとして前を向く。
廊下の真ん中でぼうっとしていたらダメだと、綺麗に貼ったポスターを見て、下に置いたポスターの残りを抱え直す。
エレベーターの下のボタンを押して、到着を待つ。
そこから下の掲示板、上のカフェテリアの掲示板へとポスターを順調に貼っていったが、その間も思索は深くなるばかりだった。
一度「このままでいい」と思えば、気持ちがとても軽くなって楽になった。
潤に抱かれるたびに「愛してる」と言われ続けて、快楽と潤が私を甘やかして、夢見心地だった。
でもその浮き立つような心の軽さは、大切な何かをどこかに──忘れてきてしまったような感覚に似ていた。
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コメント
1件
知佳さん、職場で「いいことあった?」って聞かれるの、すごく分かります。ああいうのって自然とにじみ出ちゃうんですよね。先輩方の「明るくなった」「綺麗になった」という言葉が、彼女の変化を優しく肯定してくれていて、読んでてほっこりしました。 それでいて最後の「大切な何かをどこかに忘れてきてしまったような感覚」という一文がすごく響きました。浮かれた気持ちの裏にある、不安とか違和感みたいなものを知佳自身が感じ始めている…その繊細な心の動きを描くのが本当にお上手で。潤に「変わらなくていい」と言われたこと、嬉しい反面、どこかで自分を見失いそうになっているのかなって。次が気になります🍀