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篠原愛紀
ゴンザレス
後悔しない日は無かった、と母は言う。その顔は笑っていなかった。
自信にあふれ、人に謝るところをみたことがない。傲慢なほど綺麗な人。
今も私に悪びれもせず、見透かしたように笑っていたのに。
「でもたった一人の娘だもの。やっぱりあの時は、傷つけるものすべてから逃がしてやりたかった。だから後悔はしてるけど、あの時の行動を恥じるつもりはない」
「……私、今から一矢くんと婚姻届けを出しに行くの」
最後まで謝らない母が、母らしい。騙されたときは憎いとも思ったけど、一貫して芯のある強い意志があるのだけは認める。
だから私も感謝も恨みを言うのも止めた。
「結納から婚姻届を出すまで間が空きすぎでしょ。もし祖父や父とか親戚が気づいたら、うまく言っておいて。それでチャラでいいよ」
「チャラ、ねえ。分かった。誰にも口出しさせないわ」
ちょうど駐車場が満車になり、病院も忙しそうだったので、バスの時間を確認した。
母は私に背を向け桜の木にもたれた。そちらは診察室の方角なのに、見えないかもしれないけど向こうに顔を向けることに少し違和感を感じた。
「恋バナは、結婚したから無理かもだけど、旦那のノロケなら偶には聞いてよ」
じゃあ行くねって私が背中に声をかけると、肩が大きく震えていた。
「……ありがとう、お母さん」
母の行動がいつも正解だとは思わないし、私にはどうすれば良かったのかもわからない。
でも過去のことも騙されたことも、恨んでないし怒ってもないよ。
プライドが高い母が私には見られたくなさそうだったので、そのままバス停へ向かう。
一矢くんのとびっきりの惚気で、いつか困らせてやろう。
役所の近くのカフェで待ち合わせをしていたが、律儀な一矢くんは『15分遅れる』と連絡してくれたので、珈琲を先に頼んでのんびり待っていた。
15分ぐらい私は気にならないし連絡は要らない派だけど、彼との待ち合わせは5分でも遅れる場合は、連絡しよう。
今から離れていた時間を取り戻すならば、些細な価値観の違いも知っておいた方がいいと思うんだ。
15分なんて新作ネイルを見ていたらあっという間なのに、一矢くんは走ってカフェに入ってきた。
「ごめん。出かけに取引先から電話が来て」
「全然急ぐ必要ないよ。なんなら市役所は24時間受付してくれるらしいし」
「でも遅くは迷惑になるかなって」
走ってきたのに汗一つ掻いていないのに驚いた。
イケメンは汗かかない。
「すみません、アイスココア」
思わず吹き出しそうになってしまった。一矢くんって炭酸飲料より甘いものを好む。
てっきり珈琲を飲むかと思ったけど、家にココアやジュースがあるの不思議だったんだよね。
「で、美怜さんはどうだった?」
「うん。私たちは母の手の上で転がされてたよ」
「こわっ」
そう言いながらも楽しそうに微笑んでいる。
「……良い母親かって言われたら、完璧じゃないのよ? お父さんとの喧嘩にエルメスのお皿を投げるようなヒステリックな部分もあるし」
あれは確か、出張先の番号を間違えて教えられていた母は尋ねた先のホテルで父がいると思った部屋から女性が出迎えたからだったけど。あれは確かに父がなかなか謝らなかったけども。
「あはは。華怜と喧嘩するときはお皿、隠しとく」
「私はしませんっ」
勿体ないし、片づけは大変だし、危ないのに。
「……でも感情の起伏は激しいけど、女性としてはわたしのことをちゃんとわかってた。そこだけは尊敬するしかないよ」
「ん。素敵な人だと思うよ。まあいつでもお前なんて捻ってやれるよって手のひらの俺に思ってるのかもだけど、それでも華怜のことを大切に思ってる」
悔しいけど、一矢くんでさえ分かっていたらしい。
一歩距離を置いたら私も母のいいところが見れた。
「それにしても、ここのカフェお洒落だね。奥にプールあるじゃん」
「ここ、結婚式の二次会に人気みたい。二階にアンティーク調の王室図書館をコンセプトにしたカフェが連携しててね、美里のお気に入りなの」
「……へえ」
メニュー表を見ながら、一矢くんも二階の様子を見ている。
上は時間があるときに優雅にお喋りするときがいい。今日みたいに珈琲だけってときは一階のここでいいけど。
「俺は華怜のドレス姿みたいんだけど、結婚式ってしないの?」
「結婚式かぁ。えー……一矢くんのお友だち呼びにくいしなあ」
「家族だけでハワイ行く? おじいさんが喜びそうだね」
「確かにそうだけど。紗矢ちゃんはどこでしたの」
「クラシックホテルのシャングリラってわかる? あそこの屋上に庭園があってさ、そこで結納して」
しまった。一矢くんと私じゃ生活水準が違った。最上階の予約が数年待ちの五つ星高級ホテルでって、確かそこって隣接して隣にもホテル作ってウエディングも始めたけど何年か先まで予約待ちじゃない。
話している内容が私にはついていけない。
「派手なのが嫌いなら、ハワイで写真だけとか」
「やけにハワイにこだわるね」
旅行に行った友達が、言っていた。ハワイの海岸で写真撮っている日本人多いけど観光客も写真を撮っていく場合もあるらしい。知らない人のカメラに残るのも怖いなあ。
「単に、一週間ぐらいのんびり過ごしたいんだ。華怜と」
「ほお」
「父の暴挙で早すぎるぐらい早く社長になって、俺だってもう少し旅行とかしてみたかったから、これからは時間作って華怜といろんな場所行きたいなって。今は案内できる場所がハワイぐらい」
海外旅行に行ける暇なんてなかったと苦笑するが、確かに私と同い年で大会社の社長って大変だと思う。
責任だって、抱えている仕事だって私とは比べられない。一矢くんが気晴らしになるなら、私も初海外にチャレンジしてみるのも悪くない。
「じゃ、婚姻届け出したら、指輪も作りに行こう。急いで間に合わせたやつあるけど、一生身に着けるなら、良いのがしたいしね」
運ばれてきたココアをすぐにでも飲み干しそうな勢いで一矢くんが張り切っている。
クールだの王子様だの言われていた本人が目の前で、結婚に対し目を輝かせココアを飲んでいる姿は、可愛い。
私も頷いて急いで珈琲を飲みほした。