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篠原愛紀
ゴンザレス
「いやあ、なんか緊張した」
婚姻届けを提出し、簡単に不備がないことを確認してから、「おめでとうございます」と言われ、終わった。
ただそれだけのことなのに、わざわざ駐車場までの通り道で立ち止まり自販機で珈琲を買っていたのは、一矢くん。
全然緊張している様子が表情に出ていないし、余裕の微笑みで「ありがとうございます」って言ってたくせに。
「しかも無糖珈琲買ってしまった」
「飲んであげましょうか、ダーリン」
私の言葉で表情は変えずとも、耳を赤くしているのは可愛い。
「いいよ、飲むよ、ハニー」
と言いつつも、手に持っただけで結局蓋は開けなかった。
飲まないらしい。
「指輪も予約してるから急ごう」
「はーい」
指輪はお店の二階で簡単に意見を言って、オーダーメイドしてもらうことになった。
有名ブランドなのにデザインから全てオーダーメイドできるのは驚いたけど、問題は最後まで彼もお店のオーナーも金額を言わなかったこと。
カードでさっさと払っていたけど、一体あれは総額いくらなの?
私が聞いたら野暮なのかな。半分出すよって言ったら「贈りたいから」の一点張り。
あのブランドの婚約指輪の相場、あとでネットで検索してもいいのかな。
それとも気にしない方がいいのかな。
そこまで高級だったら普段から身に着けてるのは怖いよね。きっと。うん。
「雨が降ってきた」
指輪も決まり、二週間後に完成したら連絡をいただけると知り、車に乗ってから窓に雨が落ちてきた。
空がどんよりと曇っていく。雷が鳴りそうな大きな雲がちらほら視界に入るのは少し恐怖だった。
「実はランチ、予約してたんだ……」
「え、そうなの?」
「景色が良いって、聞いてたんだけど。……確かテイクアウトできるから、家で食べようか」
確かに雷が良く見える場所でランチって怖い。
「予約してたのに、ごめんね。いいの?」
おずおずと尋ねると、なぜか嬉しそうに頷かれた。
「幸せすぎな今、全然問題ないよ。気にしないで」
そしてちょっぴり、こっちが聞いていても恥ずかしいことを言ってくるよね。
ぽつぽつとボンネットを叩いていた雨が、糸のように柔らかく小さくなったので、一矢くんはすぐ戻ってくるからと、車を駐車場に止めて、お店の中へ入っていく。
ここ、一矢くんの会社から近いな。二階建てのお洒落なカフェで、今月オープンしたばかりらしい。吹き抜けになっている二階は、茶と白が基調のモダンな雰囲気で落ち着いている。一階は入り口のベンチで数人待機しているぐらい、平日なのに賑わっている。
ここからでも分かるけど店の真ん中に置かれているテーブルには何種類ものサラダやデザート。今、苺フェアをしているらしい旗が、雨に濡れてしょんぼりと立てられている。
なるほど私の苺のためか。誰かに聞いたのか調べてくれたのかな。こんな女性ばかりのカフェ、絶対に一矢くん、興味ないだろうに。
雨がまた段々と大きくなってきた。
ボンネットを叩いて私に知らせてくれている。
――この鈍感、ばかやろう。
そう雨が私に必死で気づかせようとしてくれている。
――彼は今も昔も、変わることなく私のためにいつでも真っすぐに気持ちをぶつけていると。
でも私は今、どうだろう。彼の気持ちの上で胡坐をかいて、気持ちよくなっているだけな気がする。
手に大きな紙袋を持って、雷が駄目な私のために雨の中走って車に帰ってきてくれている彼。
あの大きな二つの紙袋は、彼が持つもの?
本来はお互い一つずつ持って一緒に歩けばいいのに。そうしたら傘だってさせたのに。
濡れないで、車まで戻ってこれたのに。
彼が私を好きだと言って、私もそれがうれしいと受け止めたけど。
私はちゃんともっと、彼のように気持ちを伝えていない気がする。
そんなジレンマが、まるで体に稲妻が走ったように襲ってくる。
駐車場まで数メートルなのに、傘も差さない彼はすでに肩が濡れていた。
なので、今にも雷が落ちてきそうな空の下に私も飛び出して、小さな傘をさす。
「いいよ、中に入ってて。風が強くて雨が斜めなんだ」
なんてお人よしに笑うから、常備していた小さな折り畳みの傘を必死で手を伸ばして彼を雨から隠した。
申し訳なさそうに笑う彼は、「ここのエビフライの乗ったロコモコ弁当が美味しいんだって」と二つの紙袋をカサカサ鳴らした。
結局、お互い少しずつ濡れて車に戻ってから、私は濡れた彼の髪に触れた。
「……お願いがあるんだけど」
「ん?」
優しく聞き返してくれる彼を見たら、気持ちが溢れそうになった。
「私、上手く伝えられないけど、一矢くんだけ頑張るのは嫌だから、一緒に進んでいきたいの」
「……焦らせた?」
目をパチパチさせて驚くから、悔しくて濡れた髪を撫でた後、だらしなくとろけた頬を抓る。
「一矢くんから一方的に、好き好き光線が出てるけど、私も、それを出したいってこと。……ちゃんと私も好きなのに、どう表現していい分からず、ずるいっていうか」
言葉にも態度にもうまく出ない。
恋を知らなかったんじゃなくて、恋とか恋愛とか異性から散々逃げてきた私のせいだけど、でも私も伝えたかった。
「華怜は可愛いよな」
彼が私の濡れた髪に手を伸ばすと、ゆっくりと口づけた。
「華怜から触れてくるたびに、俺も触れていいのかなって期待してしまう」
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