緑の空を引きずり下ろそうとする巨大な怪物の腕のような歪な黒い塔を見つめ、ソラマリアは《不幸》が好む深いため息をつく。塔へと飛んで行ったレモニカとユカリの姿が水面に落とした血のように緑の空に溶けて判別できなくなった。
ユカリのことは自身の剣の腕と同じくらい信頼している。レモニカのことも同様に信頼できているはずだ。あのような高い塔の上では、ソラマリアよりもユカリのそばにいる方がずっと安全だということも頭では分かっている。しかし焦慮に似た心配する気持ちはいささかも軽減しない。
「さあ、あたしらも行こうか」とジニに声をかけられる。「まだ見てたいわけじゃないよね?」
「ええ、もちろん。行きましょう。しっかり見張っていますので、安心してください」
「ああ、ソラマリアは少し離れてついてくるんだったね。こんな廃墟の街で気づかれないようにってのは難しそうだねえ」
全くその通りだ。大王国の調査隊にせよ、機構の僧兵たちにせよ、牧羊犬を恐れる羊のように街の中心に全員が集っているとは考えにくい。既に接近者に気づいている可能性もある。そもそもユカリたちの姿を見られているかもしれない。
今や廃れ、死にゆくばかりのバソル谷の目抜き通りを進むジニとエーミを、小路に紛れて追いかけながらソラマリアの思考は巡る。思い返してみるとレモニカが塔を登る理由や根拠は示されていなかったのではなかろうか、と気づく。一人でいけ、というのはさすがに白状が過ぎるとソラマリア自身も分かってはいる。エーミのことも、わざわざクヴラフワに帰ってきて、故郷に戻ってきて、どうして真っ先に塔へと上らないのだろう、と疑問に感ずる。
エーミのそばでレモニカがエーミに変身したことを思い出す。自分自身が世界で最も嫌いな生き物などということが本当にあるのだろうか。自己嫌悪にも程がある。そのような人間がいてもおかしくはないが、しかしエーミの人物像には似合わない。
レモニカの呪いにはまだ知られざる例外があるのではないだろうか。魔法少女に触れると一時的に呪いが解ける事象のように。
もしかしたら、とソラマリアは考える。ソラマリアのそばでレモニカが本来の姿に変身することもまた魔法少女と同じ特別な理由があるのではないか、と。根拠のない希望だ。とても口にするのもはばかれる自惚れた考えだ。もしも間違っていたなら、これほど恥晒しなことはない。
嗚呼、殿下、我が……。と、ソラマリアは心の内でさえその貴き名を唱えることを中止する。
あるいは、王妃を死に至らしめたが故に、自分は心の奥底では呪われた身の王女を憎んでいるのかもしれない、とずっと考えて生きてきた。それだけでも罪無き子供を責める恥ずべきことだと心の内に秘めてきた。
しかし実際は自分こそがその原因を、呪いを大王国に持ち込んだ張本人だった。己の罪深さを思い返すたびにソラマリアは気が狂いそうになった。
我が君の死もまた……。
「ねえ? 大丈夫? ソラマリア」
気が付くと歩き疲れた迷子のように物陰で物思いに耽るソラマリアのそばにエーミがいた。ジニもだ。
「気分が悪いなら待っていても良いんだよ」と呆れつつもジニはソラマリアを気遣う。「あの子らにはああ言ったけど子供一人守るくらい訳ないからさ」
「いや、すまない。少し考え事をしていたんだ」
「あんたは考えを秘める癖があるようだね」とジニは指摘する。「何もかも開けっ広げにしろとは言わないけどね。話せば気分が軽くなることもあるよ」
「ええ、そうかもしれませんね。いえ、しかし大したことではありませんので」
今更気づいたかのようにソラマリアは周囲を見渡す。
バソル谷はもはやかつての賑わいも営みも感じられない廃れた街並みではあるが、それでも長く保たれてきた伝統の跡などは見て取れた。腐りかけの木の構造に本来の晴れた空のような水色に塗られた窓枠。煉瓦造りを剥き出しにするも未だ色褪せぬ淡い緑の漆喰の壁。モルド城を覆っていた旗竿のような細い煙突は傾いているが頂に据えられた魔除けの鳩飾りは健在だ。呪われる前の空の破片の如き青空色の粘土瓦がいくらか表通りに散らばっているが、大部分は雲をちぎる風を表すような勾配と波打つさまを保っている。腐りゆくばかりの生き物とは違い、泰然としていくらかの美を保っている、あるいは別の形での美を得ている。
少なくとも退廃美に水を差すような人の気配はない。
「それより良いのか。一緒にいるところを見られるとまずいだろう」
「うん。機構にはね」とエーミは答える。
ソラマリアとジニが同じ疑問を浮かべた顔を見合わせる。今のエーミの言葉の意味が二人とも分かっていないことを確認し合う。
「なんで分かるんだ?」とソラマリアが尋ねる。「あの炊事の煙は機構の人間じゃないのか?」
「ソラマリアは知ってるでしょ? 忘れた? ソラマリアが聖ヴィクフォレータの恩寵寺院に侵入した時、エーミが導いたでしょ?」
そこまで説明されて思い出す。暗闇の中、エーミの霊体だか生霊だかに少しばかり手を借りたのだ。
しかし腑に落ちるわけではない。ソラマリアは首を傾げて責め過ぎないように問い質す。
「それが使えるならもっと早く――」
「色々と条件があるの!」とエーミが先んずる。「そんな風に便利に使えたらもっと簡単にシグニカから脱出できてたよ」
至極最もだが、それですべて納得という訳にもいかない。しかしジニの方は納得したかどうかはともかくエーミを追求するつもりはないようだ。
「さあ、いよいよ巨人の遺跡だね。行くよ、ソラマリア、エーミ」
ネークの塔の歪で複雑な陰に行く手の空がほとんど覆われている。先端は霞み、空に溶け込み、星々の世界まで届いていそうだ。しかしソラマリアたちの視線は地上に釘付けだった。
それは余りにも奇妙で不自然な光景だ。先ほどまでとはまるで趣の違う構造物が現れる。建築物かどうかも怪しい。剥き出しの岩を組み合わせたような、一見原始的な建物だが、よくよく見るとその建材一つ一つに一つとして同じ形が存在しない。多少の例外はあるかもしれないが、古今東西どのような文化圏でも建築物のために石を切り出すならば六面体だろう。その並びは規則性を生み、むらのない堅固さを生み出すものだ。しかし巨人の遺した構造物はというとまるで巨大な鍵と鍵穴を切り出してきたかのように複雑で、しかしながら巨大構造物を支えるに足る精密さでぴったりと合わさっている。ただの人間から見れば神殿か何かのように巨大で荘厳な雰囲気だ。
しかしそれらは不思議ではあるが奇妙ではない。むしろ巨人の建築物までもが、奇妙に呑み込まれているような景色を三人は目の当たりにしている。
巨人の遺跡は地上にあり、街の真ん中に横たわっている。しかし遺跡の周囲を街が取り囲んでいるわけではない。人間の街と巨人の遺跡が一体化しているのだ。丁度、長い年月をかけて木が人工物を呑み込むように成長するような、そんなありさまだ。しかしこの場合、必ずしも巨人の遺跡がバソル谷を呑み込んでいるように見えるわけでもなく、その逆に見える部分もある。
ソラマリアも初めは元々存在した巨人の遺跡を利用した建物であり、そのように成り立った街なのかと思った。遺跡に巣食う形でバソル谷の街は生まれたのだ、と。しかし注意深く見れば、それが間違いであることはすぐに分かる。石の壁を外から眺められる窓を取り付けたり、遺跡を斜めに両断するように半開きの鉄扉を埋め込んだりする意味など考えられない。巨人の骨がはみ出した棺が何の変哲もない公共窯から半分はみだしている。ひび一つ入っていない硝子窓を木の枝が何本も貫通している。バソル谷のものらしい起重機が巨人の遺跡の屋根から生えている。
「いったいこれはどういう状態なんだ? 呪いなのか? まるで坩堝の中身だ」
ソラマリアはエーミとジニに助けを求めるような目を向ける。エーミは信じられないという面持ちだが、ジニは好奇心を示しつつもこの光景は予想の範疇だったようだ。
「言ったろ?」とジニはなんでもないことのように繰り返す。「巨人の遺跡が出現した。突然その場に現れたかのようにって」
「それは発掘の、大発見の比喩かと……。まさか文字通り、この場に巨人の遺跡が現れただなんて、一体なぜこんなことが起きたんです?」
「まさにそれを調べに来たんだよ」
ジニは手練れの縫子の技のように巨人の遺跡とバソル谷の廃墟の隙間を縫い、未知の土地を軽やかに先へ進む。
残されたソラマリアは同じく残されたエーミに尋ねる。「エーミがここを出た時はまだこのような風景ではなかったのだな?」
「うん。エーミは塔生まれだから、下の街を見たのは塔を降りた時にちょっとだけだけど。こんな状態ではなかったよ。元々廃墟の街だったけどさ」
とにかく考えても埒が明かないと二人はジニの後を追う。鼠のように狭い隙間を通り抜け、蜥蜴のように住宅をくぐり抜けながら、巨人の利用した階段らしい高い段差を乗り越える。
「そういえば機構じゃないなら誰がいるんだ?」
ソラマリアが尋ねると同時にジニに追いついた時、ジニは立ち止まっていた。そして、すでに剣を抜き放ち、今にも飛び掛かれる態勢の戦士たちに取り囲まれていた。
一目でそれと分かる西国風の顔立ちに出で立ちだ。旅装のような軽装でも武器を持たない者は一人もいない。幾度も剣を交え、かつ幾度も共に戦線に立ったライゼン大王国の戦士たちだ。
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