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宿を取った後も、機織の鳴り止まない昼時から梟の鳴き始める日暮れまで、ベルニージュたちは街を巡って人々に話を聞いたが、ベルニージュの母については誰も知らなかった。この街に入っているなら、あれだけ目立つ容姿の人物を誰も知らないということはないだろう。もう山の中に入って怪物に近づいているのかもしれない。
二人で揃って夕食を終え、寝台に座って深刻な面持ちを浮かべているユカリの隣にベルニージュは腰かける。
ベルニージュがあまり重くならない声色で話しかける。「不安?」
「はい。貴女のことも今日のことも明日の朝には忘れてしまうんですよね?」
「うん。でもワタシが代わりに覚えてるから」
覚えておくことは無理でも、どうしても思い出したいことなら覚書を記せば済む話だ。ユカリはその発想に中々至らないが、もしもこの話をすればその性格からいってとても困ったことになるだろう。旅の仲間だと主張する見知らぬ女とて傷つけないように取捨選択できなくなるに違いない。残念ながら紙も墨も潤沢にあるとはいえない。
ユカリが真摯な眼差しをベルニージュに向けて言う。「明日の私に伝言をお願いしてもいいですか?」
ベルニージュは少し驚いて、しかし嬉しそうに頷く。
「もちろん!」
ユカリは寂し気に微笑む。
「南の国に飛んで行けないなら温い格好をしてね、って」
ベルニージュは首を傾げてからかうように尋ねる。「ユカリは渡り鳥か何かなの?」
「故郷の言い回しなんです。慣用句っていうのかな」
「へえ、ミーチオンの言葉は結構知っているつもりだったけど、初めて聞いた。ああ、つまりそれを伝えればワタシが明日のユカリに信頼を得やすくなるってこと?」
ユカリは申し訳なさそうな感情を浮かべた瞳でベルニージュを見つめつつ、控えめな微笑みとともに頷いた。
深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
心の中は少女一人だ。だけどとても明るくて暖かくていい匂いがした。
自分のための温もりは消えた。
朝、宿泊している宿屋の一室でユカリが目を覚ますと、部屋にあったもう一つの寝台に知らない少女が座っていた。ユカリは飛び起きて閉まった窓と扉を確認すると、壁を背に少女と対峙する。
「早速だけど」と赤毛の少女は紅の瞳でユカリを見つめて言う。「ユカリはある魔術によって記憶喪失し、ワタシのことを忘れている。ワタシはユカリがアルダニに来てからの旅の仲間、。……篝火って呼んでね」
窓蓋は閉まっていて、僅かな隙間から差す光は晴れやかな秋空の気配を感じさせた。
篝火が立ち上がり、ユカリが気にしているのを察したのか、両開きの窓蓋の小さな閂を外す。ユカリは少女から目を離さないように合切袋がそばにあることを確認する。
途端に、窓蓋が一人でに内へ開いた。グリュエーだ。
「おはよう、グリュエー」
「おはよう、ユカリ」
何か違和感を覚えた、がユカリは違和感の正体が分からなかった。
「うう、寒い」と言って篝火は腕を擦る。「そうそう。昨日のユカリからの伝言。いや、ワタシを信頼してもらうための合言葉みたいなものなのかな。ユカリ。南の国に飛んで行けないなら温い格好をしてね」
亡くなった義母がよく使っていた言い回しを聞いてユカリは嬉しいような寂しいような気持になった。
「確かにその言い回しを篝火さんに伝えるとしたら私しかいませんね」ユカリは篝火の表情の変化に気づく。「どうしました? 何か私、おかしなことを言いましたか?」
「こんなに早く信じてくれたのは初めてだよ。いつもはワタシの話を聞いて、グリュエーに裏を取ってようやくって感じだったんだから。そっか。信じてもらうだけなら合言葉でよかったのか。……ミーチオンの慣用句かあ」
昨日の自分は、目の前の篝火に嘘をついたようだ。ミーチオンの慣用句ではなく、あくまで義母の好きな言い回しに過ぎない。でもだからこそ、それを教えるとすれば自分しかいないのだ。
「すみません。お手数をおかけします」
「いや、いいけどさ。別にお手数だなんて思ってないから。それじゃあまずはワタシたちの旅の目的を確認しよう」
どうやら毎日のようにやっているらしい、とユカリは気づき、話を進める。
篝火の母はこの街に来ているはずだが、見つからなかった。であれば山の方に潜んでいる可能性が高い。さて、どうしたものか、と昨夜の二人は今日の二人に考えてもらうことにしたのだった。
「母を見つけて、記憶がどこにあるのかを聞き出して、奪い返すんだけど。いきなり山に乗り込むのもなあ」と篝火はぼやく。
「魔法少女の第三魔法を使いましょう」
寝台に寝転がりながら篝火は首だけこっちに向ける。「第三魔法? まず第一魔法と第二魔法が分からないんだけど。変身と万物との会話以外に何かあったの?」
ユカリは少し恥ずかしくなって俯く。
「変身が第一で、万物との会話が第二です」
ベルニージュは申し訳なさそうに苦笑して言う。「ああ、そうだよね。ごめん。じゃあ第三はあれだね。動物に憑依するやつだね?」
「はい」ユカリは立ち上がり、窓辺からナボーンの街を眺める。「鳥に憑依して、まずは山や丘、森の中を探ります。直接乗り込まず、まずは偵察するというわけです」
篝火が頷く。「なるほど。いいね。でもいいの?」
ユカリは外の景色から部屋の内のベルに目を向ける。「何がですか?」
「憑依の魔法を使っている間はユカリの体が無防備になるよね? ワタシに身を任せてもいいのかなって」
「信頼の話ならば、私は篝火さんを概ね信頼しています。少なくとも一週間以上、毎日欠かさず私が貴女のことを信頼しなければ二人で一緒にここまでたどり着けないでしょうから」
「何度でも信頼してきたから今度も信頼できる?」
「そういうことです」しっかりとユカリは頷き、窓辺から離れる。「でも鳩の一羽も見当たりませんね。もう少し山の近くまで行きましょうか」
篝火が寝台から飛び起きると、二人は宿を出て、機織の鳴り始めた朝早い街を卵山の方へと出かけた。
鉱山である卵山の付近では鉱業に関連する建物も多く、すでに多くの鉱夫が仕事を始めている様子だった。山の前面は木が伐採されており、山肌が露わになっている。代わりにいくつかの穴が開いていて土に汚れたたくましい男たちが出入りしている。あの赤い煌めき、魔法の繊維カホムルを含んだ鉱石を運び出す者や鶴嘴などの道具を運び込む者だ。産出量が減っているという話を聞いたものの活気に満ちているようである。
二人は山から少し離れ、樹々に覆われた丘の方へ足を伸ばす。しばらくして郊外までやってきたところで、色づく葉の少なくなった木の枝に忙しなく羽繕いする喉赤鳥の姿を見つけた。二人は息を潜め、静かに木陰に座り込む。
「それでは後のことはよろしくお願いします」とユカリは鳥を見つめたまま言う。
「うん。任せて」と篝火もまた鳥を見つめたまま言う。
「準備は良い? グリュエー」
「大丈夫。あの胸の赤い小鳥だね」
ユカリが空中に吹きつけた吐息をグリュエーが絡めとり、その喉赤鳥へと送り込む。
するとユカリの意識は体を離れ、喉赤鳥の内へと入り込んだ。すぐさまその小さな鳥は小さな翼を羽ばたかせて舞い上がり、秋空から篝火の母の姿を探す。山も丘も木々に覆われているが、色づいた葉の半分以上は落ちているので空からでも見通しは悪くない。人がいれば簡単に見つけられるだろう。
何度か丘を往復した後、喉赤鳥は山の方へと飛んで行く。
とうとう見つけたのは赤毛の少女の母ではなく、蛾の怪物だった。翅を引きずるようにしてどこかへ歩いていく。
喉赤鳥は好奇心に囚われた無邪気な小鳥のように蛾の怪物の後をつかず離れず追いかける。しばらくすると何者かの声が聞こえた。子供のように甲高くも朗々とした声だ。小鳥は辺りを見渡すが子供の姿はどこにも見えない。
「ねえ、怪物さん。いつまでついてくるの? 僕のことは放っておいて欲しいんだけど」
蛾の怪物に話しかけているらしいが、怪物のそばに子供は見当たらない。どうやら翅の陰に隠れて見えないのだと分かるが、姿を確かめるのは後にする。
「助けてくれたことには感謝しているよ。木の実をくれたこともね」子供は一人話す。「いい加減、獣じみた生き方はやめたかったからね。そうだ、僕にも見つけ方を教えてよ。そうでなけりゃ獣に逆戻りだ」
怪物が返事をしている様子はない。
「その後、お別れしよう。僕は一人で生きていくと決めているんだからさ。食料だって確保できないわけじゃない」
その言葉を最後に子供は話さなくなった。ただ怪物がどこかへ向かっている。いつまで経っても子供は全く翅の陰から出てこない。
喉赤鳥は回り込むように飛んで、怪物の行く少し先にどっしりと構えている大岩の頂に降り立ち、振り返る。やはり子供の姿は見えない。翅は外套のようにたわんでいる。子供はその中にいるのだろうか。
次の瞬間、突然に喉赤鳥は背後から何者かに鷲掴みにされ、何者かの口の中に放り込まれた。
ユカリは恐怖の悲鳴とともに意識を取り戻し、跳び起きるようにして駆け出す。
「どうしたの!? ユカリ! どこへ行くの!? 何があったの!?」
ユカリの後を追う紅の髪の少女に、旅の仲間だという少女に、今しがた見た一連の光景を説明する。蛾の怪物、声しか聞こえない子供。憑依した喉赤鳥が猛禽か何かに食べられてしまったこと。結局姿を見ることもできなかったが、怪物と共にいる子供を放っておくわけにはいかない。
「あの蛾の怪物は人を食べたりしないですよね?」とユカリは青ざめた顔で息を切らせて尋ねる。
「忘れないで。あの怪物にはあらゆる害意を退ける魔導書が憑依している。あの怪物のそばで何者かが攻撃したり、されたりすることはないよ。それは怪物自身も例外ではない。あれは誰かを傷つけようとして傷つけることは決してできない」
「果たしてそうでしょうか。今まさに何者かに鳥が捕食されたんです。怪物が人間を捕食しないとは限らないんじゃないですか?」
「それは、確かにそうだね。だとすれば魔導書の奇跡には、ワタシたちの知らない条件があるのかもしれない」旅の仲間の少女からはそれ以上の言葉は出てこなかった。
ユカリは足を止めることなく怪物を見た場所へと急ぐ。
喉赤鳥が最期を迎えた大岩までやってくる。鳥の血の他にも痕跡は多い。二人はそのまま周囲を捜索する。しかし昼を過ぎても一向に見つからなかった。
「ユカリ。探すにしても人手を募った方が良いよ」赤髪の少女はユカリを説き伏せるように言う。「ナボーンの街の子供ならいくらでも協力してもらえるはず。それに子供は助けられたって言っていたんでしょう? 行き倒れか何かだったんじゃないかな。今までのことを思い出せば、周りの人間が巻き込まれることはあっても怪物自身が助けようとした人物を傷つけた例はない。そうでしょう?」
「でも、なぜ怪物が人を助けるのでしょう?」
「それは……」と少女は言い淀む。「理由は分からなくても、経験則で間違いないよ。そういう噂をたどってここまで来たんだから」
ユカリは納得できないながらも頷く。「はい。そうですよね。すみません。食べられてしまって気が動転していました。いえ、あれは憑依していた小鳥が食べられたんですよね」
「とにかく一旦宿に戻ろうか。怪物がいて、母がいないなら方針を変えてもいいかもしれない」
赤毛の少女に促されてユカリは赤い屋根の街へと寂しい丘を下っていく。