師弟として長い時間を過ごしてきたからこそ、不動は主の胸中を察していた。
中世の魔女狩りで、異教徒とはいえ、大勢の無実の人々が処刑される様を見て、大日如来が顔を曇らせたことを不動明王は知っている。
大航海時代。白人が新大陸に持ち込んだ天然痘が原因で原住民が死滅し、これに代わる新たな労働力として、アフリカ大陸で大規模な「奴隷狩り」が行われた時、如来が滂沱の涙を流したことを明王は忘れてはいない。
絶滅収容所の焼却炉から最初の煙が立ち上った時、敗戦直前の日本に最初の原子爆弾が投下された時、自分の主が声も枯れよと号泣したことを忠実な僕(しもべ)は覚えている。
東南アジアのジャングルでの長い長い戦争。それが終わると、中央アジアの高原地帯で長い戦争が始まった。中東やアフリカでの民族・宗教・資源戦争。中南米諸国での「汚い戦争」と呼ばれる暗殺部隊(デス・スクワッド)の暗躍と反体制市民の大量虐殺。9月11日を境に始まった、テロとの闘いという美名の下で行われる、新しい「汚い戦争」。
あまりに多くの悲劇を見すぎたせいで、慈悲深き如来の涙も枯れ果ててしまったのかもしれない。
今回のウィルス禍も、元々は人間たちが愚かにもウィルスの遺伝子を弄くり回したすえに起きたものだった。自業自得と謂えばそれまでだ。
人間たちの愚かさ故に、今度こそ我が主は人類を見限ってしまわれるのかもしれない……
だがーーしかし。
不動明王は思いを巡らせる。
全ての人間が穢らわしく、醜く歪んだ存在ではない、と。
自分の生命と使命感を天秤にかけ、ウィルスの恐怖に曝されながらも各々の持ち場で己の職責を真っ当している、名も無き英雄たちが世界中に大勢いることを明王は知っている。彼ら彼女らの不断の努力のおかげで、辛うじて世界が秩序を保っていられることも。
「人間を見捨てても、見放してもいけません。今こそ、我々、仏が迷い苦しむ人々に救いの手を差しのべる時ではないでしょうか?」
主への意見具申を不動が行うより早く、大日如来が口を開いた。
「不動よ、策はありますか? 策もなく、唯、勢いだけで火の中に飛び込むのは、下策の中の下策」
背後に付く部下を振り返ることなく、主人は淡々と不動明王に問うた。固く結ばれた師弟の間に、まどろっこしい説明は一切無用だった。
「策はあります」明王が即答する。
「では、下界の者たちがよく口にする「ぷらんB」とやらは?」
「ございません」
「では、仕方ありませんね。お前の持つ「ぷらんA」とやらが手詰まりになった時点で、直ぐに、天界に戻りなさい。私とお前とで新たな「ぷらん」を作成した上で行動に移る。いいですね?」
「はい、お師様」
如来は足を止めると、明王に向かって振り返った。憂いに満ちた瞳が愛弟子を見つめる。
「良いですね。これは長い戦いになります。決して無理はしないように」
「はい、お師様」師匠の眼差しを真正面から受けとめ、不動明王が力強く頷いた。
こうして、この瞬間から不動明王の戦いが始まった。
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