「よぉ、誰にも挨拶無しで出かけちまうのかい?」
主の下を辞し、下界へと向かうため天界の門にたどり着いた不動明王に、背後から軽い声が投げ掛けられた。
振り向かずとも声の主は判る。同僚、戦友、悪友。そして、生真面目な性格の者が多い明王たちの中で、わざと不真面目なふりをしてムードメーカーに徹している者ーー孔雀明王だ。
「時は一刻を争う。急がねば」不動明王は静かに答える。
「明るい笑顔と挨拶は、社会の潤滑油だぜ兄弟。お前はもっと、愛想よく振る舞うべきだな。そうすりゃ……」
「判った、もういい」
天界の門扉に掛けられた重い閂(かんぬき)を外しながら不動は、絶え間なく溢れ出てくる悪友の軽口を遮った。
「相手の発言を途中で遮るのは、マナー違反だぜ兄弟」
「私の仕事は仏の教えを守護することで、お喋り倶楽部を作ることではない」
天界の門をくぐり抜け、下界を見下ろす。
下界は夜だった。街の光が日本列島の輪郭線を、漆黒の海の中にくっきりと浮かび上がらせている。
不動は高飛び込みの選手のように呼吸を整え、落下に備えて意識を集中した。
「なぁ、兄弟」
悪友が背後から声を掛ける。「他人が集中している時に……」と思わず怒鳴りつけそうになったが、その声は、いつもと口調が違ったものだったので、明王は背後の悪友を振り返った。
「必ず帰ってこいよ」いつになく真面目な表情で孔雀明王が親友に呼び掛ける。
「これが一切合切片付いたらさ。お前の格好良い武勇伝を山ほど聞かせてくれよな。悲しい話とかは御免だぜ」
「委細承知」
口角を微かに上げ、不動明王は返答した。
「いい笑顔だ。口元は良かった、あとは目が笑っていればプラス20点はいけたな」
無駄話もここまでだ。
「出撃する。門を閉めておいてくれ」
「あいよ」
一呼吸して、不動明王は下界に向けて頭からダイブした。
気圧の変化で鼓膜が耳の奥に引っ込み、普段なら左右180°近くある視界が、水中メガネをかけたようにグッと狭まる。
ある程度の距離を降下した後、不動明王は羽を広げた。鎧の背中側に刻まれたスリット部分から純白の翼が広がり、エア・ブレーキとして作用する。翼を構成している骨の部分と翼の根元部分に、苦痛といえる程の強い負荷が掛かったが、代償として降下スピードは著しく落ちた。不動明王は空中で半回転することで、足を地上側に、頭を上空側にすることができた。
不動はそのまま、ゆっくりと降下を続け、東京湾の最奥部、真夜中にも関わらず、きらびやかな光が渦巻く街の上空へと向かった。
そして、大音声で高らかに宣言した。
「病魔に蝕まれし者たちよ。医術の現場で闘う者たちよ。待たせてすまぬ。不動明王、此れより汝らに合力(ごうりき)いたすッ!」
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