「あ、そうだ。ツトムくんの好きな女性ってどんなタイプの人?」
森下クミ子はサラダを運ぼうとしていた手を止めてそう言った。
「……タイプとか分析したことないので、よくわかりません」
頭のなかには先日別れた美咲と、体育倉庫のとび箱に座る白石ひよりが重なって浮かんだ。
「ビッタは非公開?」
森下クミ子はものうげな目で言った。
「はい、すいません。非公開の予定です」
「そんな謝るようなことじゃないわ。私はね、公開か非公開かすら未公開なの」
「――未公開」
ツトムはしばし考え込んだ。
「それって非公開とはちがうのですか?」
「うん、ちがうよ。言ったとおり、公開か非公開かすら未公開よ。意味わかんないでしょ?
いつか誰かから聞く機会があるかもしれないし、ないかもしれない。そんな感じかな」
森下クミ子はそう言い残して、せわしく料理皿を運びはじめた。
夕食をともにするであろう島田タクミと沖田圭一郎もソファから立ちあがって支度をはじめた。
「ツトムくん、んじゃあとでな。11時まで待てなかったらいつでも言ってくれ。さきに一杯やろうぜ」
「ありがとうございます」
303号室にもどったツトムは、横たわるキャリーケースから、つぎつぎと荷物を取りだしていく。
クローゼットに衣類をかけ、小物を机や洗面台のうえに並べる。
それからシェアハウスにまでもってきた思い出の詰まったバットを壁に立てかけ、南欧風の部屋とは不釣り合いなコンビニ弁当をテーブルに置いた。
「食欲がまったくないな」
それはシェアハウス入居初日の緊張感だけでない。
美咲との別れが尾を引いていることはわかっていた。
プロ野球引退を告げたその日に、とつぜん去ってしまった美咲。
過去に対するケジメがいまだ心のなかで精算できておらず、時折痛みとして胸を貫いた。
「夢を追いつづけるあなたが好きだった」
そう最後に言い残して消えた美咲。
その言葉の意味は理解できても、別れの理由としては納得しがたいものだった。
美咲が求めた自分は、一軍の舞台で活躍する南海ツトムの姿だったのだろうか。
いくら鈍感であっても、それがすべてであるはずはないのはわかる。
長い二軍生活を近くで見守ってくれた美咲は、決して一軍で活躍することだけを望んでいたわけではない。
ツトムはいても立ってもいられず、携帯電話を手にした。
美咲に連絡をするのは約一ヶ月ぶりだった。
通話履歴にはすでに美咲の名は残っておらず、はじめて美咲という名を検索してから通話ボタンを押した。
コール音が鳴り、通話状態に切り替わる。
『おかけになった電話番号への通話は、お客様の申し出によりお断りしております』
「……」
ツトムは電話を切った。
美咲の番号であるのを再確認してから、もう一度ボタンを押してみる。
『おかけになった電話番号への通話は、お客様の申し出によりお断りしております』
「……あと1回だけ」
これが最後と決め、3度めの電話をかけた。
しかしまたも同じ案内メッセージが流れたことで、これが通信回線エラーではない美咲の意思であるのを悟った。
美咲はもうもどってこない。
感情のないテンプレートメッセージは、復縁の余地がわずかながらも残っていないことをツトムに突きつけた。
ツトムは半ば放心状態で椅子から立ちあがり、崩れるようにベッドに倒れ込んだ。
低反発ウレタン製の上質なベッドが、荷重に反発するように体を跳ねあげる。
そのまま上体を起こし、ベッドのうえを飛び跳ねてみた。
ドン、ドン、ドン!
まるで心に染みついた美咲という余韻を払い落とすように、何度もベッドの上で跳躍を繰り返す。
そしてクローゼットの天板に、べったりと貼りつく「人の耳」を発見した。
ツトムの意識は、すぐに異形なる耳へと移った。
飾りじゃなく本物の耳!
跳躍をやめ背伸びをして覗き見る。
ツトムの高背でなければ見えない隠密な位置に、耳は疑いなく貼りついていた。
それは家具の汚れでも、秘めたる前衛的なデザインでもない。
人体の一部である「耳」にまちがいなかった。
「どういうこと?」
思わずと声を漏らした。
すると耳は、底なし沼にでも吸い込まれるように、天板のなかに消えた。
『クイッ、クイッ』
ツトムは頭に秒針を浮かべ、指を眉間に当ててから2度折り曲げた。
世界はツトムの意識だけを残したまま、6秒前にもどった。
天板にはまだ消えるまえの耳が貼りついていた。
ツトムは慎重にクローゼットの棚板に足をかけ、2本の指を使ってその耳をつまんだ。
すると耳は単体生物のようにビクリと反応し、真っ赤に色づきながら暴れはじめた。
ツトムはもがく耳に顔を近づけた。
「今日からお世話になります。南海ツトムです。どうぞよろしくおねが――」
耳へのあいさつを終えるよりさきに、その場で意識を失った。
まるで糸繰り人形のように脱力し、ベッドに跳ね返っては、床に叩きつけられた。
ツトムに生殺与奪を握られていた耳は、天板のなかに姿を消した。
9秒後――。
床で有機物にもどったツトムは、ベッドに肘をかけてクローゼットを見あげた。
「さっき時間もどしたんだっけか……」
思えばラ・コンナートのピザキッチンで五十嵐真由の能力を突き止めるために、一度能力を発動させていた。
常に能力をフル充電させるよう努めてきたツトムだったが、シェアハウスの入居によって心に緩みが生じたようだった。
「調子に乗るなよ……俺」
ドゴッ!
ツトムは戒めるように、自らのこめかみにこぶしを打ち込んだ。