翌日、代表取締役社長という名の傀儡である麗はさっそく社長室で困っていた。
給湯室で自分と父の関係を説明して以降、噂として回ったのか、社員から向けられる目はずいぶんと優しくなったと思う。
だからと言って社長として認めてもらっているわけではなく、麗は判子を押し終わって暇だった。自分で仕事を探さねばと思うのだが、身近な例が最悪すぎて社長の仕事って何をするのかわからない。
だが、傀儡政権のマリオネットである麗に、影の社長として扱われている明彦と上層部の人たちが忙しく働いているのに、これってなんですかー? どういう意味ですかー? この数字の意味はー? などと、口に出して聞く勇気がない。
そうなれば、するしかないじゃないか、片付けを。
父の私物がたっぷり置いてある社長室から、まずは荷物を出していく。
ゴルフクラブはまあ、付き合いがあるのかもしれないが、パターセットは絶対いらない。会社内でパター練習とかドラマかCMでしかみないやつである。
あと、きれいな状態で置いてある英語の経済本。これも買って満足して絶対読んでいない。
パラパラっとめくったが当然、麗には全く欠片も全然一分も理解できない。多分父もだろう。
麗はパターセットと本をまとめた。
フリマアプリで売っぱらってやろうか。
(流石に勝手には駄目か……あのせこい父のことだから経費で買っているかもしれないし……)
若干、すごく、とても残念ではあるが我慢し、麗は片付けを続けた。
「麗、そんな格好で何をしているんだ」
四つん這いになって片付けをしていたのでスカートが捲れ上がっている事に気づいたが、何事もなかったかのように麗は立ち上がった。
恥というものは、恥じらうから恥なのである。
「お片付け。明彦さんは何しに来たん? 私がおさなあかん判子でもある?」
「社長じゃなくて、妻に用があってきた。昼飯を買ってきた。まだだろう?」
妻という言葉に否応なく顔が赤くなるのを感じ、麗は時計を見た。
「あら、もうこんな時間」
時計の針が昼を指しているのを見ると、現金なもので急にお腹が空きはじめた。
「ガパオパオかトムヤムクンのどっちがいい?」
「?」
麗は呪文のような言葉に首を傾げた。
「タイ料理だ。下にキッチンカーが来ていたから買ってみた」
会社はオフィス街にあり、近くの公園には色々なキッチンカーが来ていた。
興味はあったがキッチンカーは高く、安くて不味い社食があるので、購入したことがなかった。
「タイ料理は食べたことないわ。一回食べてみたいと思っててん。ありがとう!」
明彦が弁当を袋から出したので、麗は机の上を片付けた。
「このスープ凄い色してるね」
オレンジ色のスープには、海老としめじが浮かんでいる。
魔女が毒薬を作るために高笑いをしながらかき混ぜている鍋の中身のようだ。
「それはトムヤムクンだ。で、もう一つは鶏ミンチをバジルで炒めているらしい。鶏肉にするか?」
「うん、ありがとう」
忙しい明彦がペットボトルのお茶まで買ってきてくれていたようで、至れり尽くせりである。
暇な麗が行くべきだったのに。
「いただきます」
麗は手を合わせた。
「ん……美味しい」
少しピリッと辛いが下に敷かれたご飯と混ぜて食べるとマイルドになって食べやすい。
上に乗っている目玉焼きも混ぜてしまおうか。
「明彦さん?」
トムヤムクンを何も言わずに食べている明彦を見て、麗は気づいた。
「口に合わなかったんだね。トムヤムクン」
「いや……」
すー、と明彦が目を反らす。
「一口もらうね」
麗はスプーンでスープを掬って飲んでみた。
ここ数日明彦に餌付けされ続けており、遠慮がなくなったのだ。
(酸っぱい。そして辛い)
結構癖になる味だが、成る程、人を選ぶ。
「これも美味しい。交換しよっか」
麗が弁当を交換しようとすると、明彦にその手を捕まれた。
「麗、無理しなくていい」
「してないよ。私にはトムヤムクンも美味しいから」
「本当に?」
「本当」
弁当を交換し、麗はトムヤムクンを食べながら思わず笑ってしまった。
「笑うなよ」
「だって……」
(なんだか、可愛い)
明彦とは長い付き合いだが、結婚してから知らなかった一面を多く見るようになった。
笑い続けたからだろう、黙らせようとしたのだろう明彦にガパオパオを口に入れられたのだった。
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